電通インターンで伝えるアイデア脳No.1
アイデアは、考え続けた先で気付くもの
2019/05/20
電通は、2018年の「電通インターンシップ」を東京本社、関西支社、名古屋支社で実施。参加した学生たちは、第一線で活躍する電通のクリエータ―やプランナーによる講義や演習を通して、人の心を動かすアイデア発想法を広く学びました。
本連載では、インターンシップの講師を務めた電通社員が登場。それぞれが自分の思考法や企画術、仕事の取り組み方などについて語ります。
第1回は、デザインサマースクール2018の校長を務めたアートディレクター河合雄流が、広告業界におけるアート職の現状と今後の可能性についてお話しします。
クリエーターのプロフェッショナリティーはどうなっていくのか
僕は、2016年から若いクリエーターの育成に関わっていますが、その中で見聞きすることを通して、日々感じることがあります。
それは、アートディレクターの仕事の大きな領域の一つ、グラフィックデザインに関してです。
今、メディアは大きく変わってきています。長く続いてきた紙メディアから、ウェブメディアの時代へと移り変わり、グラフィックデザイナーの意味合いが、少し変化してきていると感じています。
というのも、少し極端に言えば、これまではグラフィック広告をつくるためにグラフィックデザイナーが雇われてきましたが、今僕らがやっているのは、グラフィック以外のこともかなり多いという現実があるからです。つまり、プロフェッショナリティーが曖昧になってきているといえるでしょう。
メディアの変革期にあって、若い人たちはこの先、未知の世界に身を置かなければならない。その時に、アートディレクターを志望する若い人たちが電通という会社とどう関わっていくのか。デザイナーをどういう立ち位置で捉え、どこに活躍の場を見つけていくべきなのか。そこを急速に考えていく必要があると思います。
プロフェッショナリティーが曖昧になってきているというのは、アートディレクターに限らず、クリエーティブのどの職種にも言えます。僕は、クリエーティブの世界でプロフェッショナルは存在すべきだと考えているのですが、もしかしたら、その価値観自体が間違っているのかもしれません。
個人がメディアになれる世の中になり、誰もが自由に表現し、自分の作品を世界中の人たちに見てもらえる可能性を手に入れました。それは「総クリエーター化」でもあり「総素人化」ともいえるのでしょう。
そうなった時に、今まで表現に携わってきた人たちのプロフェッショナリティーはどうなるのか。クリエーターが日々の積み重ねで培ってきた技術がどうでもよくなる社会って一体どうなるんだろう。そんな社会の到来に不安を感じつつ、そうなってしまう可能性も十分あり得ると思うのです。
これまでのように時間や労力を費やして技術を身につけても、それに見合うだけの対価が社会的に約束されないかもしれません。苦労をしてまで技術を手に入れる必要があるのだろうか、と若い人たちの行く末を考えると心配でもあります。
技術とは表現において自由を手に入れること
今の若い世代を見ると、僕らの若い頃と変わらず、古典的ないわゆるグラフィックデザインが好きな人たちは一定数います。変化の時代にあっても、美大の中では今なおグラフィックデザイン的な価値観に基づいた、それができる方が能力が高いというヒエラルキーが何となく存在していると感じています。
しかし、そこにまったく違う価値観が導入されることで、急に才能が花開くこともあり得ます。例えば、SNSなどを駆使して、多くの人から「いいね」と言われることで、自分の価値を見つけるのというのも一つ。大学という価値観の中では、さほど優秀とされていなくても、世の中から認められることは、美大という枠を超えた現代的な価値と言えます。
ただ、それはいろんな技術の積み重ねの結果、手に入れたものではなく、もともと個々に備わっていた資質による表現が偶然うまくいっただけ、ということが多いので、飽きられやすく、消費されやすい側面もあります。
今、世の中の表現者の多くは、“消費”という脅威にさらされていますが、そこと戦うために、「技術」が必要だと思います。
こういうときはこうした方がよいなど過去の多くの経験や知識を学ぶことで、考え、身につく力があります。それを手に入れるために、一つ一つ小さな経験を積み重ねる必要がありました。その力を技術というとすると、技術とは表現において自由を手に入れることではないでしょうか。
技術を身につけること、一つの世界に精通することは、自分を自由にしてくれます。自由になれてからがようやくプロなのかな、と。
アートディレクターの技術とは、経験や知識を学び、考えることで身につく、「表現としての着地を見つける力」だと思います。最終的には時代や社会やいろんなものをひっくるめた上での定着力といってもよいのかもしれません。
頭に浮かんだ「ぼんやり気になること」を取り逃がさない
僕は、インターンシップに参加した学生さんによく言っていることがあります。それは、「『アイデアを考えなさい』という表現に惑わされないように」ということ。なぜならば、“アイデアを考える”ということ自体が、じつは間違っているからです。本来アイデアというのは“思い付き”でしかなく、考えるものではないのです。
思い付くというのは、いろんな情報が自分の中に入り込んで、たまたま何かと何かがパッとくっついた時に新しいものが生まれる、ということであって、順序立てて考えた結果として思い付くことは、あまりありません。
科学の世界ですら、何らかの偶然がないと思い切った発想や発見にはつながりませんよね。つまり、思い付くというのは、努力しても難しいのが現実かなと思っています。
ただ、目的に対してどういう解決方法があるのかを“考え続ける”ことは無駄ではありません。日頃から考え続けることは誰にでもできるし、考え続けることで気付きを得ることはできると思うのです。
何となく心の中に問題意識があると、ある時突然、「あ、そういえば」とハッと“気付く”ことができます。思い付くというのは、生み出すというより気付くに近いことなんです。思い付くためにできることを強いて挙げるなら、日常の中でいろんな情報を絶えずインプットしながら、視野を広げておくことです。
僕が、日頃から唯一意識しているのは、ぼんやり気になっていることを取り逃がさないこと。ぼんやり気になっていることの輪郭が少しでもつかめると、「それってこういうことなんだ」と、気になっている理由が明確になります。
それによって、気付き体験ができるので、頭の中がクリアになり、次のステップへと考えを進められるのです。
それがうまくできるのは、リラックスしている時ですね。新たにトライしたいことが思い浮かんだり、何かに気付けたりするのは、心身がリラックスしているような心理的に安定している時だと思います。
デザインや表現で価値の差をつける時のために
今いろんな価値観があるといっていても、テクノロジーというところに対して、世の中の期待というのがすごくあって、そちら側にすごく振れているような気がします。
しかし、テクノロジーは、発展と停滞を常に繰り返しているので、いずれコモディティー化され停滞期を迎えるはずです。そうなったときに次にやっぱり必要になってくるのが、デザインだったり表現だったり、基礎研究の上につける化粧部分なのかもしれませんが、そこで価値の差をつけていくということになると思うんです。
技術の平坦化、平均化の次には、新たにまたアートや表現、人間の感覚などが、価値としてすごく大事なものになってきます。そう考えると、今後追い風が吹き、今以上に活躍のチャンスが見えているともいえます。若い人たちには、そのときに向けてしっかり力を貯めて、バネを縮めておいてほしいと思っています。