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拡散するクリエーティブNo.6

熱量のある広告

2014/01/23

書けません…最終回だというのにちっとも筆が進みません。

まあ、文章って自分の中にあることしか書けませんからね。何かしら経験や知識をもとにしか考えられないし、言葉が空から降ってきたりもしません。それにしても語ることがコラム6回分もなかったとは、あまりのスカスカ具合に自分でも悲しくなります。

企画やコピーにしても、表現というのはすべて自分の中にある材料からしか生まれないものでしょう。前回のコラムでは「拡散は火が燃え広がるさまに似ている」というふうに書きましたけど、その大元となるエネルギーだって作り手が自分たちの中から懸命に絞り出したものだと思うのです。たとえアイデアのはじまりはふとした思いつきであったとしても、そのまま軽いノリでつくってすごくいいものになるってことはないと思うんですよね。少なくとも僕自身は記憶にありません。まあそもそも、いいものつくった経験がそれほどないんですけど、このコラムでは少ない自分の経験を振り返りながら、過去5回にわたって「クリエーティブが拡散するために必要なことは何か?」ということを考えてきました。

 相手のことを考えながら対話を意識する。

 嘘をつかずに本当のことを言う。

 そして、世の中にとっての「はじめて」をめざす。

…でもこれらのことって、なにひとつ特別なことじゃないですよね。拡散とか関係なく、表現をつくるうえでは昔から大切だとされてきたことです。SNSがあるからといって、みんなが拡散したいと思わないものは広まっていくわけがないのですから。

デジタルになったことで表現がラクしてつくれるようになったのでしょうか?ソーシャルメディアがあれば世の中の人はカンタンにいいね!と思ってくれるのでしょうか?決してそんなことはないでしょう。技術の進歩でできることが増えたのは事実だとしても、ほんとうにいいものをカタチにするのは、アナログだろうがデジタルであろうが同じように大変であり、作り手の膨大な努力や苦労によってできあがっています。

同じように「拡散」という言葉で連想しがちな、自然に広まるとか、少ない労力でラクして広められる、なんてイメージもまた大きな勘違いなのです。誰ですか、一攫千金なんて不謹慎なこと言ってたのは…あ、僕でした。すいません。

何かが話題になって世の中に拡散するという現象はいまに始まったことではありません。これまで見えなかった拡散のメカニズムが、SNSを通じて目に見えるようになっただけのこと。そして、それに伴って表現にとって何が大切なのかもまたハッキリ見えるようになってきたということなのだと思います。

だから広告関係者の皆さんには、自分が関わっている広告表現についてどれだけツイートやシェアがされているのか、ぜひいちどチェックしてみてほしいのです。大半の広告は、ほとんど話題にされていないのが現実ではないでしょうか?もちろんSNS上の反響だけが尺度ではありませんし、それだけを重視しようと言うつもりはありません。でも、最も恐れなければいけないのは、ツイートすらされない広告になってしまうことでしょう。自分自身、広告の反響を知りたくてエゴサーチしてみたのに、ついに数件のツイートしか見つけられなかったことがあります。そのとき痛烈に思い知らされたのは、「パワーのない表現は完全に無視される」ということ。印象に残らない広告は、存在しなかったのと同じことになってしまうのです。

どんなにメディアやテクノロジーが発達したとしても、人の心を動かす方法までは提供してくれません。私たちにできるのは、人を動かす表現とはどんなものなんだろう?という本質を愚直に問い続けることだけです。それは変化し続けるものですし、われわれのつくる広告というものは、すぐに過去へと流れていってしまいます。結局のところ広告制作者の仕事とは、いま、このとき、社会を熱くするための「熱」を提供することのような気がします。そのためには、表現に自分自身の熱を注ぎ込むしかない。

今回の冒頭に、うまくいったと思える仕事でラクにつくれたものはないと書きました。でも、つくっている過程は例外なく楽しかった気がします。これでいいと言われても、もっといいものになるはずだと、えんえんコピーを書き直していたように思います。ラクしてつくるより、苦労も楽しくなるようなのが「いい仕事のしるし」なのかもしれません。たくさん考える。あれこれ悩む。試行錯誤する。あえて挑戦する。もうひと粘りする。そういった人の熱が大きければ大きいほど、受け手にも伝達していくのでしょう。圧倒的な熱量のある広告。きっとそれこそが、感動も可視化されてしまう時代に生きるわれわれの、めざすべきクリエーティブなのだと僕は思っています。