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PR資産としての企業ミュージアムのこれからNo.3

貿易大国日本の「海運の歴史」を伝える日本郵船歴史博物館

2022/06/08

PR資産としてのミュージアム

企業ミュージアムは、「ミュージアム」というアカデミックな領域と「企業」というビジネス領域の両方にまたがるバッファーゾーンにある。そして運営を担う企業の広報、ブランディング、宣伝、人事などと多様に連携する組織である。本連載では、企業が手掛けるさまざまなミュージアムをPRのプロフェッショナルが紹介し、その役割や機能、可能性について紹介していく。


日本の海運業をリードしてきた日本郵船。同社は一企業の歴史にとどまらず、日本の海運産業の歴史資料を保存・公開し、海事思想の普及に努めるため日本郵船歴史博物館を運営している。本稿では、地域コミュニティの一員として産業観光の場としても地域社会へ貢献する日本郵船歴史博物館の取り組みから、物流というものの本質と意義に迫りたいと思う。

取材と文:櫻井暁美(電通PRコンサルティング)

日本郵船歴史博物館は、横浜の景観を彩るルネサンス風コリント式列柱の建築物の中ある。(写真提供:日本郵船歴史博物館)(2023年4月1日から2026年10月までリニューアルのため休館)
日本郵船歴史博物館は、横浜の景観を彩るルネサンス風コリント式列柱の建築物の中ある。(写真提供:日本郵船歴史博物館)(2023年4月1日から2026年10月までリニューアルのため休館)

みなとみらい、桜木町駅から弁天橋を渡って海岸通りを進み、山下公園通りを通り、山下ふ頭、元町、港の見える丘公園、山手西洋館を巡る散歩道は、横浜観光のモデルコースだ。シンボリックな三つの塔のうち、キング(神奈川県庁)、クイーン(横浜税関)が並ぶ海岸通りの一区画に泰然と立つのが、今回ご紹介する日本郵船歴史博物館だ。「海に囲まれ、資源に乏しい島国である日本は、食料、石油、ガス、鉄鉱石など暮らしや産業に欠かせない物資の大半を輸入に頼っています。これらの物資の9割以上は船舶によって運ばれています。『海運』は日本において欠かせない重要な役割を担っているのです」と広報の岩隈奈緒子さん。

関東大震災後、昭和11(1936)年に、日本郵船横浜支店として建築された建物の1階に、日本郵船歴史博物館が開設されたのは2003年6月。歴史的資料の散逸防止・保存、研究者への情報提供、海事思想(※)の普及、社員教育、地域社会への貢献を運営の目的にしている。前身の日本郵船歴史資料館は1993年、近くの元倉庫だった場所にあったが、より多くの人に知ってもらえるようにと、目抜き通りにある横浜郵船ビル内に移転した。

※海事思想:海の利用、海上交通、海洋環境、海上安全等、海に関する知識全般

 
貴重な収蔵品、資料の数々が時代、テーマ別に9コーナーに整理されている。(写真提供:日本郵船歴史博物館)
貴重な収蔵品、資料の数々が時代、テーマ別に9コーナーに整理されている。(写真提供:日本郵船歴史博物館)

ミュージアムのターゲット、部署の連携について

ターゲットは、広く一般の人。学生の社会学習、グループ会社の新入社員研修にも活用されている。ファクトを通じて客観的に、日本の海運業が人々の生活にどのように関わってきたかを伝えたいとしている。横浜の中心地にあることから、国内・海外観光客や学生が多く訪れる。海事教育に注力して毎年必ず校外学習のコースに組み込んでいる県外の学校もあるという。商船・海洋系特定校や教員には無料枠も設けられている。

本店の広報グループは経営企画本部、「歴史博物館」と「氷川丸」の広報は総務本部で別部署だが、企画展やイベントなどのお知らせに関しては、本店の広報グループと連携して情報発信する。また、人事グループ、ESG経営推進グループとの協業も多い。

後世に伝えるべく、平和への願い

受付から入ると、まず目に飛び込んでくるのが、長崎平和祈念像を手がけた彫刻家 北村西望作の「殉職戦没社員冥福祈念像」だ。「太平洋戦争では5312人の社員が犠牲になっています。輸送船護衛の重要性の認識が当時の軍部には乏しかったのでしょうね」と館長代理の明野進さん。戦時下では民間船は政府に徴用され、物資、兵員などを運んだが、敵の標的となり、多くの命が船とともに失われた。失われた人命は業界全体で約6万人、船員の実に2人に1人弱(43%)、海軍所属軍人戦没者の2.6倍の殉職率だという。

「米国の戦略は“商船を沈めること”。それによって島国日本を日干しにしようとしました」と明野さん。ここに日本郵船の沈められた185隻の船の写真が飾られている。生き延びることができた大型船は、戦時中、海軍特設病院船であり、戦後に引退して、山下公園に係留された氷川丸ただ一隻だ。

殉職戦没社員冥福祈念像(写真提供: 日本郵船歴史博物館) 殉職戦没社員冥福祈念像(写真提供: 日本郵船歴史博物館)

文明開化と海運の幕開け

日本郵船の歴史は、開港、日本近代化、戦争の歴史と重なる。三菱グループの創業者岩崎彌太郎が、土佐藩の経営する船会社、九十九商会を引き継ぎ独立したのは、1871(明治4)年。三菱グループのシンボルマーク“スリーダイヤ”と九十九商社(九十九商会)の文字が刻まれた「天水桶」が“1.日本をひらく”コーナーの目玉だ。防火用水桶である天水桶は、深川の釜六(釜屋六右衛門)製。今よりも若干線の細い三菱だが、このマークは、土佐藩主山内家の家紋「三つ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を掛け合わせて作られたものだ。

天水桶(写真提供:日本郵船歴史博物館)
天水桶(写真提供:日本郵船歴史博物館)

館内には、映像資料が多数あることも特徴の一つとなっている。床上の羅針盤を模したスイッチを踏むと岩崎彌太郎や彌太郎の後を継いだ弟彌之助、その後の三菱グループ幹部の記念写真とともに、貴重な映像資料による説明が始まる。

開港当時、日本の船といえば、江戸時代の帆掛け船であった。開港によってアメリカの3000トンクラスの蒸気船など欧米の船が日本沿岸輸送を席巻した。明治政府は自国海運の近代化が急務であると思っていたが、特に1874(明治7)年の台湾出兵の際に痛感する。この海外出兵で岩崎彌太郎は兵隊の送迎を任され政府から信頼を得た。特に、大蔵卿の大隈重信と内務卿の大久保利通らから評価され、どんどん会社を大きくしていく。三菱商会(九十九商会から改称)は、1875(明治8)年にわが国初の定期航路便として上海航路を開設。横浜、神戸、下関、長崎、上海を結ぶ航路を週1回運航していた。

同時に、1875(明治8)年に政府からの命令により、日本人幹部船員養成を目的とした三菱商船学校が設立された。イギリス風に倣い、隅田川に係留された船が校舎として、学生たちは船室に寄宿しながら学んだことが写真資料で分かる。三菱商船学校は戦後、東京商船大学へ、また現在は、東京水産大学と合併し、東京海洋大学として知られる。

日本郵船誕生秘話

順風満帆とばかりにいかないのは世の常だが、郵便汽船三菱会社(三菱商会から改称)は、政府内での後ろ盾であった大久保利通の暗殺、大隈重信の失脚、その後のアンチ三菱派の台頭によって試練に立たされた。政府は半官半民の共同運輸会社設立を支援したので郵便汽船三菱会社との間で運賃値下げ競争が始まり、このままでは双方共倒れになりそうな状況に追い込まれていく。その間に彌太郎は死去。弟の彌之助が事業を引き継ぐ。

3年にわたる競争の末、政府の仲介で、両社が合併して誕生したのが、日本郵船会社だ。新会社設立とともに彌之助は海運事業を手放したが、その後、今の三菱グループの中核をなす事業会社を次から次へと創業していく。“2. 日本郵船誕生秘話”のコーナーでは、日本近代化の歴史に欠かせない登場人物が紹介されたパネルや資料が展示されている。

世界にひらく

こうして日本郵船は、1885(明治18)年に誕生、翌年、長崎~天津航路、1893(明治26)年に日本初の遠洋定期航路としてボンベイ(現在のインド ムンバイ)航路を開設し、綿花の輸入に携わり、その後も活発な航路開拓と事業拡大を行う。

ボンベイ航路開設の1年後に、日清戦争が始まり、他の海運会社と同様、日本郵船の所有船も政府に徴用されることになる。この時は幸いにして大きな被害はなかったというが、その10年後の日露戦争では船も人も失う惨事に見舞われる。当時の風俗や船内の様子を記した貴重な雑誌、1901(明治34)年の「郵船図絵」が展示されている。東陽堂「風俗画報」の記者が、日本郵船の貨客船「春日丸」に乗船した時の記事が、イラストで紹介されている。

豪華客船時代の到来

展示物の中でも人気が高いのが、豪華客船のモデルシップだ。第1次世界大戦終結とともに大不況を迎え、苦労の多かった時代を乗り越えて、昭和初期に注目された豪華客船。ビルダーズモデルといわれ、造船会社からオーナーにプレゼントされる48分の1スケールのモデルが並ぶ。サンフランシスコ航路を往来した1.7万トンの浅間丸は三菱造船株式会社長崎造船所で造られた。

この頃になると、国内造船が、世界レベルに。戦前に建造され現存するただ1隻の貨客船氷川丸のモデルシップもある。秩父宮ご夫妻やチャップリンなど有名人を多く乗せたこの船は、1930(昭和5)年に、横浜船渠(よこはませんきょ)という今の横浜みなとみらい地区にあった造船所で建造された。

「当時の宣伝ツールに使われていたパンフレットの印刷のクオリティ、紙質などを見ると、日本郵船がいかに広告に力を入れていたか、というのがうかがえます」と学芸員の遠藤あかねさん。「新田丸」「八幡丸」「春日丸」など頭文字が日本郵船の英字社名NYKを表すことで「NYK三姉妹」といわれる豪華客船を擬人化した女性3人のポスターは、画家小磯良平氏によるもの。また当時では珍しい、海外に発注した船型パンフレット、扇型パンフレットなどを見ることができる。

日本郵船の船といえば頭に浮かぶ黒地の煙突に二引の赤いラインのファンネル(煙突)マーク。日本郵船の特徴的なファンネルマークはこの頃、1929(昭和4)年に登場した。

艤装(ぎそう)品、救命ボートから滑車、ハンドレールに至るまで金具一つ一つが手作りで再現された精巧なモデルシップの展示。(写真提供:日本郵船歴史博物館)
艤装(ぎそう)品、救命ボートから滑車、ハンドレールに至るまで金具一つ一つが手作りで再現された精巧なモデルシップの展示。(写真提供:日本郵船歴史博物館)

モデルシップのアップ画像

復興、総合海運会社への変革

敗戦国となった日本。日本郵船は多くの社員とほとんどの船を失い、政府徴用で失った船の戦時補償は打ち切られた。本店ビルや日本郵船歴史博物館が入る横浜郵船ビルはGHQ(連合国軍総司令部)に接収され、戦後復興はゼロからのスタートとなった。当初、GHQの方針は、日本を再軍備させないために海運業に対しても厳しい姿勢であった。ところがソ連との冷戦が始まり、方針が大きく変わる。

こうして日本の高度経済成長期を支える重厚長大産業の流れとともに、海運業は飛躍的に発展。定期航路の貨物船はコンテナごと貨物を積み降ろすコンテナ船となり、また、不定期船は自動車を運ぶ自動車専用船、液化天然ガスを運ぶLNG船など、専用船へと変わっていった。

日本郵船も定期船主体の海運会社から、総合海運会社へと事業を拡大させた。創業当時、船の運航は外国人から学んでいたが、その後、日本人乗組員だけで運航できるようになり、今はまた、多くの外国人に船の運航を任せている。日本人乗組員は、彼らに技術を教える立場に変わった。

環境と海運業

これからの課題は、いかに環境に優しい船を運航するかということ。日本郵船歴史博物館では、常設展のほか、歴史、アート、企業紹介という主に三つのテーマで企画展を開催している。船舶運航に関わる技術開発をテーマにした企画展ではグループ会社の新しい省エネ技術などを紹介した。時代に翻弄(ほんろう)されながらも、必死でそれに適応し、海運業を通じて日本経済を支えてきた日本郵船。今もまた時代から大きな課題を与えられ、挑戦し続けている。

強運の船、氷川丸

日本郵船歴史博物館をのぞいた後は、少し足を延ばして日本郵船氷川丸に行きたくなる。太平洋戦争で、大型貨客船の中でただ一隻残った氷川丸は、1961年から横浜の山下公園に係留され、2016年に国の重要文化財に指定された。横浜市の子どもたちは、遠足や校外学習で一度は訪れる場所だ。

洋上の氷川丸(写真提供: 日本郵船歴史博物館)
洋上の氷川丸(写真提供:日本郵船歴史博物館)

一等客室、食堂、社交室などは、今でも訪れる人に、海のロマンと昔の船旅気分を感じさせてくれる。氷川丸は船名を大宮氷川神社に頂き、貨客船として、戦時中は病院船として、戦後5年間は引き揚げ者の輸送などに利用され、その後再び1960年まで貨客船として活躍し、総勢約9万人を運んだ。「お客さまをはじめとした皆さんと氷川丸の安全、加えて日本郵船株式会社の社運隆昌を祈念し、欠かさず氷川神社にお参りします」と船長の大内孝利さん。

社交室

一等特別室の内装は初代・川島甚兵衞が創業した川島織物所など、国内外の一流デザイナーが携わった。(写真提供:日本郵船歴史博物館)
アールデコ調の一等社交室の内装(写真上)はフランス人工芸家マルク・シモン、一等特別室の内装(同下)は初代・川島甚兵衞が創業した川島織物所など、国内外の一流デザイナーが携わった。(写真提供:日本郵船歴史博物館)

地域コミュニティの一員として活動

コロナ禍前までは、毎年「海の日」に氷川丸の見学会を開催するなど地域コミュニティの一員として役割も担っていた。「歴史博物館ではブロックを使って船を作るというワークショップがあるのですが、そちらは人事グループの海上人事チームを通じて、若手の海上職の社員に講師をお願いしています」と学芸員の遠藤さん。制服でビシッと決めた船員さんたちが、船での仕事などを紹介してくれるので、子どもたちは、目を輝かせながら熱心に質問をしてくるのだという。

現在はコロナで実施していないが、以前は日本郵船歴史博物館でコンサートや、海図の作図教室、ペーパークラフト教室などのイベントを開催。市内の子どもたちの校外学習に広く活用されている日本郵船氷川丸は、横浜少年少女合唱団に練習場を提供、イベント時にはミニコンサートを実施。また歴史博物館と氷川丸で小学生絵画コンクールを実施するなど地域に貢献している。

取材を終えて

海運に従事する人、船旅を経験する人は、それほど大人数はいないと思われるが、生活の全てに“海運”が関係していることを意識してもらう、知ってもらうという広報的な大きな役割を、日本郵船歴史博物館・日本郵船氷川丸は担っている。ぜひ多くの人に足を運んでもらい、同社や海運業の功績について知ってもらいたいと思う。

日本郵船歴史博物館のHPは、こちら

日本郵船氷川丸の概要は、こちら


【編集後記】

海運を中心に、明治の世からわが国の物流を支え続けてきた日本郵船のミュージアムということもあり、「動線」というものに思いをはせてしまった。海風を感じながら、横浜の街を散策した先に待ち受けている日本郵船歴史博物館。この「動線」が、まずは、博物館巡りの最初の一つの醍醐味(だいごみ)だ。

館内にのみ込まれると、140年近くにも及ぶ歴史の「動線」が用意されている。ただ単に、日本郵船という会社を紹介しているのではない。わが国の物流の歴史そのものが体感できるのだ。

そのスケール感に圧倒されっぱなしの時間を過ごした後、外へ出て、海を眺めてみる。世界への「動線」、未来への「動線」、といったことに自然と思いが及ぶ。過去から、現在、そして未来への壮大なる「動線」を楽しませてもらった気分だ。

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