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うつくしいくらしかた研究所レポートNo.1

「うつくしいくらしかた」とはなにか<前編>

2022/09/01

日本人が古くから日々の暮らしの中で実践してきたことや、暮らしの中にあった考え方に改めて注目し、現代にも受容されうるかたちでさまざまな活動を通じて提案する、うつくしいくらしかた研究所(※)が、「うつくしいくらしかた」とはなにかを考えていく本連載。

例えば「自然に寄り添う」「不便や手間を厭(いと)わず、プロセスや姿勢をたいせつにする」「個人の知恵や技を高める」こと。それは生活が続いていくものであるように、結果ではなく日々の積み重ねといえるかもしれません。毎日がんばるのはちょっとハードルが高い気もしますが、それを大変だと思わないで自然体で実践している人にヒントを教えてもらいたくて、うつくしいくらしかた研究所の電通 田中宏和が、コーディネーターの山田節子先生にお話を伺いました。

※うつくしいくらしかた研究所についてはこちら

 

 
出会うべき人との出会いを生んだ「思いの強さ」

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田中:山田節子先生は、日本人の心、技術、表現力、生活観を、現代の生活に生かし、日々の暮らしを豊かにするお仕事を長年手がけていらっしゃいます。1977年に松屋銀座で初開催された「日本人の食器展」から、近年の会津若松の老舗仏具メ―カーにおける「祈りのかたち」のプロデュースなど、モダンデザインとともに日本の原初的な感性のようなものを大事にされていることに引きつけられました。

山田:「日本人の食器展」を企画したころの日本は海外志向が日ごと高まっていく時代でした。そのような時だからこそ、日本で育まれてきた美意識をベースに、変化するライフスタイルにかなう日常を豊かにする器の集大成をし、展示会をすることが必要と感じたのです。

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田中:1979年に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が刊行される直前ですから、日本の伝統を再評価する気運もまだまだない時ですね。

山田:ええ。その後1982年、松屋銀座地下食品売場にオープンした日本茶の茶席「茶の葉」誕生も、当時コーヒー、紅茶、缶飲料などに押され、この国の人々が親しんできた日本茶の文化に対して「何かしなければ」の願いからでした。私の話に耳を傾けてくださった松屋の当時の食品部長さんが、「茶の葉」の若き当主を紹介してくださったことから話がスタートいたしました。

そのように、勝手に思いや願いを抱き続けていますと、助け舟を出してくださる方が現れて……(笑)。
そして、幸いにも出会うべき方々との出会いにつながってきたように思えます。

田中:そんな調和的なあり方が、まさに私の考える「うつくしいくらしかた」と重なります。必然的に人の助けが集まってくるような、独自の「思いの持ち方」をお持ちなのではないでしょうか。

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日常茶飯が学びの連続

山田:私の思いの持ち方に独自性があるとしたら、生まれ育ってきた風土や、格別な出会いの繰り返しが関係しているのかもしれません。ジャーナリストの先駆けだった祖父と父とで信州に新聞社を興した家系ということで、家には常に多様な人の出入りがあり、祖母も母も、それを上手に切り盛りし、私も姉たちと一緒に当たり前のこととして手伝い、聞き耳も立てていました。

そうして培われた人との絆や季節を愛でる心が私の素地となったように思います。なかでも忘れることのできない原体験は、子どもがいなかった父の妹の家で過ごした、長野県飯田市川路での数年間にあります。

川路には3歳から小学校1年生までいましたが、その地域一番の関島家というお屋敷で遊ぶことが大好きでした。そのおうちには7つの蔵があり、菖蒲や蓮の花が咲く池があり、裏には茶席のある築山もある。今思えば琳派の世界を体現していたような場でした。大正時代には農閑期に東京から市川團十郎一座を呼び、庭の広い縁台で歌舞伎を披露し村の人々の日頃の労をねぎらったというおうちでありました。

そこのおばあさまが、格別に美しい田舎言葉を話されるお方で、ある日、子どもたちが庭先で遊んでいますと「明日からはナ、春から夏に変わる日でありますデナ、お道具を入れ替えねばなりませぬノダニ。それでナ、おまえさまたちに手伝ってもらいますデナ」とおっしゃるのでした。

そして、大切な食器類が入っていたであろう箱を、小さい子には軽い小さな箱を、大きな子には大きな箱を持たせて「皆でナ、運ぶのでありますニ」と。お屋敷ですから階段もあるし、蔵まで行くにはかなりな距離もあるのです。それでも、関島家の子とそこで遊ぶ私たちが同じ扱いを受けて、「両の手に持って大切に運ばねばなりませぬニ」「転んではなりませぬニ」と言葉をかけてもらいながら。

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幼いころに川路で教わったというお箸とお茶わんの持ち運び方

田中:映画の1シーンのようですね。命という意味において、大人も子どもも同じだというような……。

山田:子どもたち誰もが丁寧に扱われましたね。そして、「手伝ってオくれたご褒美ダニ」とお茶をお入れくださる時も「お茶というものはナ、決して急いで入れてはなりませヌニ」「右の茶わんから左の茶わんへ。今度はナ左から右へ、少しずつ少しずつ入れなければなりませヌニ。そうしませぬトナ皆に同じおいしいお茶が入らないのでありますニ」といったふうに……。

思えばそれは後年「茶の葉」につながる日本茶をおいしく入れる所作を教えられた事始めであったとも思えます。

別の時には裏庭にある築山の茶席で季節の炊き込みご飯をごちそうになることもあり、子どもたちの楽しみでした。それぞれがお茶わんとお箸の持ち方、運び方を教えられ、茶席でおいしくいただいて、帰り際には「おうちの方へのお土産でありますニ」と花一輪を和紙包みにして持たせてくださる。忘れることなき、生活美学の学びの場でありました。

自然と「人との出会い」に育てられてきたこと

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田中:ふだんの暮らしの中で、知らずしらずのうちに日本の伝統や風習を教わっていく環境にいらっしゃったのですね。一方で興味深いのは、その後先生が多摩美術大学に進学され、モダンデザインにも関心が広がっていかれたということです。

山田:わが家には絶えず漆器や陶器を作る人、絵を描く人などの出入りもあり、毎月送られてくる美術雑誌や海外雑誌を見るにつけ、「これからはデザインの時代かもしれない」という予感があり、1962年に美大の図案科に入りました。そのころはまだデザイン科とは呼ばず図案科でした。当時は松屋のデザイン展示を見に行くことが、デザイン系の学生の憧れの場でありました。1955年以来グッドデザイン運動を推進し、デザインの選定品の売場もあり、展覧会も開かれ……デザイン系の学生にとっては「松屋に行かないと時代に遅れる」と言われていました。

強く印象に残っている展示の一つが、松屋の中央ホールの吹き抜けの天窓から、今では誰もがご存じのマリメッコのテキスタイルがディスプレイされた時です。その斬新で大胆なデザイン・表現・展示のすべてが圧巻で、必ずこの国に行ってみなければと思わされたことでした。

田中:なんてモダンな!

山田:「海外のデザイン」や「デザインの未来」を意識しつつも、2年生になると染織科に進むのですが、大学の授業は退屈なことが多く、1年生の夏休み以後、仲間と益子へ陶器を作りに行くことが、何よりの楽しみになりました。その時そこで、陶芸家・濱田庄司先生との思いもかけぬ出会いは大きな出来事でした。当時益子に集まる美大の学生は多く、濱田先生から「屋敷の掃除をしに来なさい」と、お声がかかる日がありました。

掃除が終わるころ「ご苦労」と言われて先生が現れ、ご褒美の如く「この濱田が良いと思って集めてきたものだから」と言われて、若き日のイギリス留学時代に始まり、国内外での収集品を「いいだろう、いいだろう」とおっしゃられながら見せてくださいました。「濱田はこういうものが好きで、今このような<もの>を作っているのだと、その道筋だけを覚えていれば良い」と語られる、そのお姿は忘れることのできない一場面でありました。

田中:素晴らしい教育ですね……。

山田:まさに「歩んでいると人にモノに当たる」というように、幸運な人間であったと思っています。私自身は何の能力もなかったと思うのですが、ただ、「語り部」として現代に伝えたいような、出会いや出来事が幾たびもありました。

田中:歩いてみることが大事だし、さらにそこでうまく人と出会えるというのは、最初の話に戻るようですが、自然と引き寄せるような何かがそこにあるということかと思うのです。

山田:でもね、私ひとりで出会えたわけでは決してありません。その時々で仲間がいて、その人・モノ・コトたちとのご縁をつないでいくことで、さらに格別な方々にお目にかかることができました。ですから、<自然>と<人>と<コト>に育てられてきたという思いが強くあります。

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柳宗理事務所の入門を導いたもの

山田:柳宗理先生との出会いも、柳事務所に4年生の時から仕事が決まり事務所に通い始めた親友から「すごい先生だから会ってみたら」と誘われたのがことの始まりでした。柳事務所では当時ふだんの日は千円の材料費で、スタッフの昼食を作るという習慣があり、今ではグッドデザインの名品となっているステンレスボウルや白磁の器を使い、先生と所員が一緒にいただくのが常でした。当時、たぬきそば1杯が80円ぐらいの時代でした。

私が初めて伺ったその日に、イタリアからのお客さまがあり、友人が「この人、料理が上手ですよ」との話から、友人と私が10人前後の料理を予算4千円で担当することになりました。その日の帰り際に先生が、「学校へ行ってもしょうがないから、あしたからここへ来なさい」と言われたのです。それはあまりにも幸運な出来事で、「はい」と深くこうべを垂れたことでした。

田中:事務所の入所テストに料理で合格されたわけですね(笑)。ちなみに、料理はどのように覚えられたのでしょうか。

山田:特別に習ったりはしていないのですよ。たとえば、お正月には大勢のお客さまがある家だったので、必然的に年末からおせちを作るために、三姉妹も駆り出され働きました。「どうしてこんな家に生まれたのかね」とぼやきながら自然と身についたといいますか……(苦笑)。親もそれぞれの特性に合う分担を考えてくれ、元旦の朝から正月三が日は、私は盛り付け係でした。

田中:料理の味もさることながら、盛り付け方も「あ、これは」と光るものがあったのではないでしょうか。

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インタビューは山田先生のご自宅で行われた

山田:どうでしょうか。ただ、柳事務所は美意識に対する緊張感は常に欠かせないところでした。忘れられない出来事がありまして、ある朝、事務所のドアを開けるなり、柳先生の「帰れ!」との怒鳴り声がとんできたことがありました。それで一度戸を閉め、なぜなのか理由が分からず、恐る恐るドアを再び開けますと、また「帰れと言っただろ」と大声が。「どうしてでしょうか?すみません、教えてください」と頭を下げますと、「今日のおまえの顔の色と口紅の色と全然あっていない。そんなことも分からず事務所へ来るな」と。思いもかけぬことの厳しさでした。己を省みず流行に流された安直さを戒められたエピソードは他にもあり、忘れぬようにと、常に思い返しています。

ガウディの建築に受けた洗礼

田中:大学卒業後、1968年にヨーロッパに渡られます。

山田:はい。ある時柳先生に「一度世界を見てから、自分が何をすべきか、考えなさい」と言葉をかけていただきます。そこで憧れの地、ヨーロッパへの初めての旅に出ました。ヨーロッパは、それぞれの国ごとに心引かれる表情があり魅力的でした。中でも際立って異様なものと思い込んでいたガウディの建築ですら、スペイン・バルセロナの街並みでは風景になじんでいて驚かされました。
漠然とヨーロッパに憧れていた当時の私にとって、頭からザーッと水をかけられたような出来事となり、わずかな滞在でしたが、日本のことをもう一度、改めて見直し、勉強しようと思うきっかけになりました。

田中:柳先生からの宿題に一つの答えを出せたのでしょうか。

山田:はい。幼いころの南信州の川路での昔話のような暮らしや、長野市にあった自家で「おせち」を作らされたことなど、忘れかけていた日々の暮らしにこそ、これからやっていくべきことへの大切なヒントがあることに立ち戻れたことでした。

私の人生は、常に善き出会いがあり、道が開かれてきたという感謝の思いがあります。それは田舎のおじいさんだったり、おばあさんだったり、あるいは第一線で活躍する方々であったりとさまざまですが、多くの方々、多くの事々、多様な場から常に学びをいただいてきました。

(後編につづく)うつくしいくらしかた研究所
日本人が古くから日々の暮らしの中で実践してきたことや、暮らしの中にあった考え方に改めて注目し、 「自然に寄り添う」「不便や手間を厭わず、プロセスや姿勢をたいせつにする」「個人の知恵や技を高める」といった「うつくしいくらしかた」を、現代にも受容されうるかたちでさまざまな活動を通じて提案しています。「七十二候」に沿った旬の生活文化を紹介・提案する暦アプリ「くらしのこよみ」は累計77万ダウンロード、書籍「くらしのこよみ」は1万部のロングセラーとなっています。
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