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PR資産としての企業ミュージアムのこれからNo.15

“隠さず、オープンに”──クロネコヤマトミュージアムの誠実さ

2022/11/24

シリーズタイトル

企業ミュージアムは、「ミュージアム」というアカデミックな領域と「企業」というビジネス領域の両方にまたがるバッファーゾーンにある。そして運営を担う企業の広報、ブランディング、宣伝、人事などと多様に連携する組織である。本連載では、企業が手掛けるさまざまなミュージアムをPRのプロフェッショナルが紹介し、その役割や機能、可能性について紹介していく。


企業にとっては、反省すべき歴史というものが、多かれ少なかれある。いわゆる「黒歴史」である。ヤマトホールディングスが創業100周年を記念して設立した「ヤマトグループ歴史館 クロネコヤマトミュージアム」は、まさにそれを隠さず、正々堂々と公開しているミュージアムである。その誠実さと勇気に来館者は心を打たれ、真のファンになってしまうのである。本稿では、社内外に失敗も含めて歴史から学ぶという謙虚な姿勢を示すクロネコヤマトミュージアムの事例を紹介。インターナルブランディングやファンづくりの場として、どのように活用されているのか考察したい。

取材と文:立野広海(電通PRコンサルティング)

エントランスの様子。四角形のモチーフは荷物の箱を表現している(筆者撮影)
エントランスの様子。四角形のモチーフは荷物の箱を表現している(筆者撮影)

創業100周年を記念して設立

あなたは「ヤマト運輸」と聞いてなにを思い浮かべるだろうか。街で見かけたことがあるだろう特徴的なトラック。緑地に黄色のアクセントがよく目立つ制服。商標登録がされてはいるが、もはや一般名称のようになじみ深くなった「宅急便」という言葉。そして、クロネコ。誰も想像に難くないだろう。それほどまでに、ヤマト運輸は多くの人の日常生活に溶け込んでいる企業だ。しかし、そこに至る道のりは決して順風満帆なものではなかった。そんなヤマトグループの歴史をたどることができるのが「ヤマトグループ歴史館 クロネコヤマトミュージアム(以下、クロネコヤマトミュージアム)」である。

クロネコヤマトミュージアムは、ヤマトグループが2019年11月29日に創業100周年を迎えたことを記念して、東京都港区の、品川駅から徒歩約10分の場所に設立された。総床面積約2500平方メートルのフロアには、合計450点を超えるコンテンツや写真が展示されており、1919年に創業したヤマトグループ100年の歩みをたどることができる。2020年7月のオープンから累計約2万人(2022年7月31日時点)が来館し、1日の平均来館者数は、土・日・祝日で約200人(2022年4月~7月の平均)となっている。入場料は無料だ。

「つなぐ」をテーマにした交流空間

クロネコヤマトミュージアムが入居しているヤマト港南ビルは地上10階建て。7階から10階はヤマトグループの社員が働くオフィスや、ヤマトグループ総合研究所が入居しており、ミュージアムは6階フロアと、そこから下に伸びる外周のスロープで展開されている。1階から5階には集配拠点である宅急便の営業所があり、ミュージアムの順路であるスロープの上下はトラックが走る車路になっている。「つなぐ」をテーマに、お客さまとの交流空間として建築されたというヤマト港南ビルならではの一工夫が盛り込まれている。

ヤマト港南ビルの断面模型(筆者撮影)
ヤマト港南ビルの断面模型(筆者撮影)

6階にあるミュージアムの入り口をくぐって最初のコンテンツは、約14メートルの大型ワイドスクリーンのある円形シアターである。ここでは15分に1回、ヤマトグループとある家族の100年の物語がアニメーション作品として上映されており、これから巡るヤマトグループ100年の歩みをイメージしやすいものにしている。そこから先は時代に沿って、「1919~ 創業の時代」「1928~ 大和便と事業多角化の時代」「1971~ 宅急便の時代」「2000~ 新たな価値創出の時代」と大きく四つのエリアに分かれており、6階からスロープを下りながら現代に近づいていく構成となっている。

創業当時の理念を伝える、制服の展示

一つ目のエリアである「1919~ 創業の時代」は、創業の地である銀座の変遷とともに、ヤマトグループ創業当時の様子が展示されている。創業者である小倉康臣は、牛馬車から自動車への転換期に、まだ高価であったトラックを4台購入し、日本初のトラックによる貨物運送事業会社「大和運輸」を創業した。試行錯誤を繰り返すが、三越呉服店(現・三越)と商品配送契約を結ぶことで、創業から約4年で経営基盤を固めるまでに成長。その後、引っ越しや婚礼荷の運送などの新事業でも成功を収めることとなる。

このエリアには創業当時の制服・制帽のレプリカが展示されている。当時としては珍しかったが、運送業では運転手こそ会社の顔であるという思いの下に採用された。現在でもヤマト運輸の制服は信頼と品位の象徴であるが、そういった創業当時から続く理念を来館者に伝えることができる印象的な展示となっている。

創業当時の制服・制帽のレプリカ (筆者撮影)
創業当時の制服・制帽のレプリカ(筆者撮影)

クロネコヤマトミュージアムの館長を務める白鳥美紀氏によると、ヤマトグループの施設が内包されているビルだからこそ、このミュージアムが創業当時の理念を伝えることはインターナルブランディングとしても機能しているという。「来館した社員からは、歴史を振り返ることで理念などをあらためて確認することができた、という感想が多くあり、帰属意識の高まりに寄与していると思います」と同氏は述べている。

「ネコマーク」の誕生

ヤマト運輸ロゴ

二つ目のエリアは「1928~ 大和便と事業多角化の時代」である。ここでは、日本で最初の路線事業といわれる、本格的な定期便である「大和便」の開始から、1971年の「宅急便」事業の開始直前までの歴史を紹介している。

1927年、小倉康臣がロンドンの視察で着目し、日本にその仕組みを持ち帰り開始した大和便は、従来の1台の車に1人の荷主の荷物を預かる貸し切り運送ではなく、1台の車に複数の荷主の荷物を積み合わせて運送する仕組みだった。1935年には関東一円にネットワークを広げ、戦後もGHQの関連業務を請け負うなどして成長を続けた。その後、美術品輸送や鉄道貨物輸送など新事業にも進出し、現在につながる事業が数多く誕生した。

もう一つ、この時代に誕生したヤマトグループにとって象徴的なものが、おなじみの「ネコマーク」だ。あのマークは、親ネコが子ネコを運ぶように荷物を丁寧に扱うことを表している。このエリアでは、実は社員の娘さんの絵がヒントとなっているという誕生秘話が紹介されている。なお、このネコマークは2021年4月1日に初のデザイン変更がなされた。さらに、新たな価値提供の実現に挑戦する事業を象徴するマークとして「アドバンスマーク」も新設された。

「ネコマーク」への想いがつづられた展示(筆者撮影)
「ネコマーク」への想いがつづられた展示(筆者撮影)

自社の「黒歴史」をも展示する意味

このエリアの最後の1960年代は、大和運輸にとって、どん底の時代であった。事業の多角化によって最先端を走ってきた大和運輸は、成功を収めた関東一円の営業区域にこだわっていたため、長距離輸送はトラックではなく国鉄の高速貨物列車を使用していた。その後、高速道路が整備され、車両性能が向上し、長距離輸送が鉄道輸送からトラック輸送にシフトしていった時、すでに荷主は先発業者を利用している状況であり、大和運輸は長距離トラック輸送への参入に後れてしまう。その結果、経営学者の占部都美神戸大学教授による著書「危ない会社」では古い体制の企業として取り上げられ、実際に経営危機に陥ってしまった。

そんなどん底の時代を表現するかのように、この時代の展示コーナーはそれまでの展示とは少し雰囲気が変わる。壁一面は黒く塗りつぶされ、天井からは「危ない会社」や「出遅れは明らか」など、当時の大和運輸を表すようなマイナスな言葉が垂れ下がる。

これは、直感的に大和運輸に陰りが見えていたことを表現するために意図的に企画・制作したのだと白鳥氏は言う。「壁にはその当時を代表するような華やかな事柄を配置しています。一方で、大和運輸の事柄は壁に張り付けず、床に転げ落ちています。大和運輸にとって暗雲が垂れ込めていた時代を表現するために、このような展示にしました」

1960年代、どん底の時代の展示(筆者撮影)
1960年代、どん底の時代の展示(筆者撮影)

三つ目のエリアの「1971~ 宅急便の時代」になると、療養中の小倉康臣に代わり、小倉昌男が2代目社長に就任する。会社の再建を任された小倉昌男は、個人から個人へ荷物を送る手軽な手段がないことに注目し、業態を個人に絞ることを決心する。しかし、経営陣はこの決定に大反対した。その出来事を視覚的に分かりやすく表現した展示も、このエリアで目を引く展示の一つだ。

当初、宅急便は経営陣に大反対された(筆者撮影)
当初、宅急便は経営陣に大反対された(筆者撮影)

なぜ自社の企業ミュージアムに、わざわざ自社にとってネガティブなものを展示するのだろうか。ここでも重要になるのはインターナルブランディングであろう。一つ目のエリアの展示のように社員の帰属意識を高めるための展示がある一方で、このエリアの展示のように、同じ失敗を繰り返さないという意識づけや、イノベーションを生む上での挑戦するマインドの育成につながるような展示がある。

実際、白鳥氏も「マイナスな時代ではありましたが、当社のイノベーションの一つが生まれた時代でもあり、省くことは考えられませんでした」と語っている。最終的に労働組合が理解を示したことによって始まった宅急便は、お米屋さんなどを取扱店として拠点を拡大した。さらに、クール宅急便などの誕生で輸送できるものが増えたことによって大きな支持を獲得し、普及していくこととなる。こうして、宅急便は多くの人に利用される輸送サービスとなったのだ。

さらに先に進むと、宅急便体験コーナーがあり、セールスドライバーの制服を着ての撮影や、荷物の積み込み体験などができるようになっている。特にインパクトがあるのは、実際に使用されていたウォークスルー車の展示であろう。車内に乗って様子を見ることができ、安全に荷物を運ぶための工夫などを体験することができる。こちらは子どもに大人気で、将来のファン層の獲得にも寄与している。さまざまなステークホルダーを含む来館者をターゲットとして設計されていることが非常によく分かるコンテンツだ。白鳥氏によると、小学生の社会科見学や大学生の利用も増えているとのことだった。

体験用ウォークスルー車(筆者撮影)
体験用ウォークスルー車(筆者撮影)

来館者と一緒に未来を考えるための装置

最後のエリアは「2000~ 新たな価値創出の時代」だ。ここでは、近年急速に設置場所を増やしているオープン型宅配便ロッカー「PUDO(プドー)ステーション」など、多様化するニーズに対応した新たな物流の形を展示している。また、このエリアには未来創造ラウンジという、来館者が未来の暮らしを想像し、絵で表現することができるコーナーも設置されている。この展示は、「運送業」ではなく「運創業」を目指すヤマトグループの未来を示すとともに、ステークホルダーを含む来館者にヤマトグループの創る未来を自分ゴト化させる装置としても機能しているはずだ。

インターナルブランディングは、伝播(でんぱ)する

ヤマトグループ100年の歩みを駆け抜けるとミュージアムは終了となる。展示物や展示方法から、非常にインターナルブランディングのことを考えてつくり込まれている企業ミュージアムである、という印象を受けた。白鳥氏も「100周年に当たって、どのようなレガシーを残したいかと考えた時に、まず思い浮かんだのは社員教育でした。歴史に学ぶことはきっとたくさんあると思います。そういった部分をぜひ社員に見てもらいたいと思って制作を開始しました」と語っていた。

一方で、興味深い点は、このような開かれたインターナルブランディングが、社員以外のステークホルダーや一般の生活者にも伝播(でんぱ)し、対外的なファンの創出に寄与している点である。実際、来館者アンケートでは「これまで以上にヤマトのファンになりました」「これからもヤマトを利用します」といったポジティブな意見が非常に多く寄せられているそうだ。どん底の時代も赤裸々に展示する誠実な設計が、多くのファンを生み出しているのかもしれない。かくいう私もファンになった一人なのであった。

クロネコヤマト新VI車両

【編集後記】(ウェブ電通報編集部より)

2代目社長である小倉昌男の著書の数々は、これまでに何度も読み込んだ。難しいことは書かれていない。小中学生でも分かるような、易しい文体。だが、その内容は「目からうろこ」なことばかりだ。

イノベーションといわれると、なにか突飛(とっぴ)で奇抜なことをする、というイメージだが、昌男の発想は人や社会に対してどこまでも優しく、どこまでも理知的だ。ニューヨーク・マンハッタンのホテルから街を見下ろして、どのブロックに、どのようにクルマを配置すれば、効率的な配達ができるだろうかと考える。そこからの行動力がすごい。国に対して根気強く働きかける。クルマメーカーにも、いまだかつてない車を造ってくれるよう交渉する。

クロネコヤマトの事業、サービスには「深い愛」がある。その愛情を、社員一人ひとりが実践してみせる。お客さまからの「いつも、ありがとう」の一言がなによりのモチベーションなのだという。頭が下がる、とはこのことだ。

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