漢方の伝統と革新を伝えるツムラ漢方記念館
2024/04/26
企業ミュージアムは、「ミュージアム」というアカデミックな領域と「企業」というビジネス領域の両方にまたがるバッファーゾーンにある。そして運営を担う企業の広報、ブランディング、宣伝、人事などと多様に連携する組織である。本連載では、企業が手掛けるさまざまなミュージアムをPRのプロフェッショナルが紹介し、その役割や機能、可能性について議論したい。
漢方薬は、自然界にある植物や鉱物などの生薬を組み合わせて作られた薬である。何千年という長い年月をかけて行われた治療の経験によってその効果が確かめられ、漢方処方として体系化されてきた。これら先人たちの功績を後世に伝承するために、また最新医学・薬学の科学的な解明によって発展を続ける漢方の情報発信拠点として、ツムラは企業ミュージアム「ツムラ漢方記念館」を運営している。「自然と健康を科学する」という経営理念の下、ツムラがこのミュージアムでどのようなことを伝えようとしているのか、本稿でご紹介したい。
取材と文:酒井美奈(電通PRコンサルティング)
東京から電車でおよそ1時間、茨城県の南部、阿見町(あみまち)。ツムラ茨城工場の敷地の中心にある2階建ての建物と、その裏手にある薬草見本園がツムラ漢方記念館だ。この記念館は医療関係者向けに、1992年に開館した。そして創業115周年のメモリアル事業として、2008年に「漢方・生薬を学ぶ・知る・楽しむ」をコンセプトとし、リニューアルされた。
館内は漢方・生薬に関する歴史的に貴重な書物等から100種類を超える原料生薬の展示、漢方製剤の製造工程や品質管理までを展示し、漢方薬の成り立ちも体系的に紹介している。
「自然と健康を科学する」最新拠点
延べ床面積1611メートル、施設内は中央の吹き抜け空間を生かし、展示が一望できるオープンな明るい雰囲気だ。リニューアルされたツムラ漢方記念館は2008年度のグッドデザイン賞(公共建物空間/土木/景観)を受賞した。
年間約4000人の来館者を迎えるこの記念館は医療関係者を主対象としているため、学習機能を重視している。現在すべての大学医学部、薬学部等医療系学部では漢方について学ぶ機会が設けられており、2023年度は医学部・薬学部・看護学部を中心に、約1200人の学生が見学に訪れた。。
展示は「見せる展示から使う展示へ」を狙っている。漢方医学に関わる専門的な情報や歴史資料など難解なものも多いが、分かりやすいようにレイアウトに工夫を凝らした。漢方の歴史だけでなく、漢方医学の治療の考え方やツムラの品質管理の取り組みを伝えることに注力している。
「漢方」は日本独自のもの
ツムラと聞くと“漢方薬”と思う人は多いであろう。元来、東アジアには「中医学」「韓医学」「漢方医学」の三つの医学があった。中医学は中国、韓医学は韓国、漢方医学は日本が発祥である。
漢方医学は、5~6世紀頃に中国から日本に伝来した医学が室町から江戸時代以降に独自に発展を遂げたものだ。漢方という名称は、江戸時代にオランダから伝来した西洋医学を「蘭方」と呼び、従来の日本の伝統医学を「漢方」と呼び分けたことに由来する。ツムラ漢方記念館の1階には漢方医学の歴史が、2階には江戸時代の薬用具が展示されており、成り立ちから学ぶことができる。
「良薬は必ず売れる」を信念に
ツムラの前身である「中将湯本舗 津村順天堂」は1893(明治26)年、婦人薬「中将湯(ちゅうじょうとう)」の販売で日本橋に創業。130年余りの歴史を持つ、日本を代表する「100年企業」である。
当時の社名にある「順天」は、「天の道に順う(したがう)」という意味であり、「天の理法に従うものは栄え、逆らうものは滅びる」「天の意志に従い、人々の願いに応える」という考えを示す。「良薬は必ず売れる」との強い信念を表していると言えよう。ツムラ漢方記念館は、そうした信念の下に歩んできたツムラの数々の取り組みを紹介している。
その一つが、初代・津村重舎(つむら じゅうしゃ)が創業と同時に「中将湯」を広めるために講じた施策の紹介である。その頃の日本は脱亜入欧の時代であり、政府が西洋医学の導入に力を入れたことから、医学の西洋化も着実に進んでいった。創業から2年後の1895(明治28)年に「漢医継続願」が帝国議会で否決され、西洋医学が医師のライセンスとして唯一認められるものとなり、漢方医学を志す医師や研究者がどんどん減るという衰退の時期を迎えた。
しかしその一方で、当時は富国強兵を背景に軍医が中心だったため、一般の人々が西洋医学の恩恵を受けるにはほど遠く、特に女性や子どもは医療から取り残されていた。そのため重舎は「女性に寄り添う」という強い思いとともに「中将湯の製造と販売を一生の仕事にする」という信念を抱き、衰退する漢方の復権を信じてさまざまな取り組みを行った。当時はまだ誰も取り組んでいなかった新聞広告や、創業時の金看板なども館内に展示されている。
中将姫伝説
そもそもこの中将湯のもとになる処方は、どこから来たのであろうか?中将湯は、医業を生業とする家系である重舎の母方の実家、藤村家(奈良県宇陀市)に代々伝わる婦人病の妙薬であった。この薬の由来は、能や浄瑠璃で演じられてきた「中将姫伝説」にも残っている。
奈良時代の747(天平19)年、藤原鎌足のひ孫である藤原豊成とその妻、紫の前との間に待望の女の子が生まれ、中将姫と名付けられた。しかし、姫が5歳の時に母が亡くなり、父は後妻を迎えたが継母は姫を憎み、ついには殺害を企てるようになった。姫が14歳の時、継母は家臣に中将姫を殺すように命じたが、心優しい家臣は姫を殺すことができず、日張山に姫をかくまった。
翌年、父に発見された姫は都に連れ戻されたが、世上の栄華を望まず當麻寺(たいまでら)に出家した。そこで薬草・薬方の知識を得ることになったとされている。この中将姫が、日張山で最初に身を寄せたのが前述の藤村家といわれ、それを契機に交流が始まり、婦人病に良く効く秘薬を藤村家に伝え、それが藤村家家伝の薬「中将湯」になったといわれている。
漢方医学の復活はなるか
ツムラは創業以来、企業の利益を社会に還元することに注力してきた。薬の製造と販売だけでなく研究にも力を入れ、漢方の普及に努めている。初代・重舎は1923(大正12)年に欧州を訪問、現地の製薬会社が研究所をつくり、社会に貢献していることに感銘を受けた。これがきっかけとなり1924(大正13)年、東京・上目黒に研究所を、東京・調布に薬草園を開設し研究を行った。薬草園は、後に東洋一の規模となった。今は茨城工場の敷地内に研究所が置かれ、研究を続けている。
その後、太平洋戦争などのため、2代目・津村重舎は会社の維持に苦労した。終戦からしばらくたった1957(昭和32)年、津村順天堂は漢方による診察のための診療所を東京・日本橋に開設。同時に臨床データの集積を始めた。津村順天堂のこれまでの研究精神が受け継がれ、具現化されたものである。「研究所」「薬草園」「診療所」の3施設の連携で、津村順天堂は漢方の復権の基盤を固めた。
そして1976(昭和51)年に医療用漢方製剤33処方が薬価基準に収載され、保険薬の指定を受けた。1987(昭和62)年までに129の処方が薬価基準に収載された。2024年現在、日本では148種類の漢方薬が保険適用を受けており、ツムラは医療用漢方製剤市場のうち約83%のシェアを占めている。ツムラ漢方記念館は昔のパッケージの他、医療用の漢方製剤と原料となる生薬の見本も展示されていて、実際に訪問した薬学部の学生が触って実習することもあるという。
漢方の品質は畑から
1988(昭和63)年に社名を津村順天堂からツムラに変更。「自然と健康を科学する」を掲げ、現在に至っている。そのツムラが注力している分野の一つが、「原料生薬の品質」だ。
ツムラの漢方薬で使われる「生薬」はGACP (Good Agricultural and Collection Practice、WHOなどが制定した薬用植物の優良農業規範であり、栽培から出荷まで詳細に規定されている)にのっとり栽培している。また、原料となる生薬栽培の段階から流通、製造、品質管理まで製品の履歴情報を追跡できる「トレーサビリティ」体制について大きく場所を割いて紹介している。この品質管理体制こそツムラが誇るものの一つであることが展示を通して伝わってくる。
バーチャル漢方記念館の開設
ツムラ漢方記念館は医療従事者向けの公開だが、医療従事者以外でも漢方薬に興味がある人向けに、記念館を疑似体験できるコンテンツとして、バーチャル漢方記念館「Hello! TSUMURA バーチャル漢方記念館」を2020年に開設した。
バーチャル上のミニチュアのツムラ漢方記念館で会社の歴史や漢方の歴史、漢方製剤ができるまでの工程など、さまざまな情報を動画やアニメーションも活用して紹介する。同館はまた、Zoomでリアルタイムにつなぐ「ツムラ漢方記念館 オンライン見学会」を開催。県内の中学生・高校生から一般生活者や医療関係者を対象に、漢方の歴史や漢方薬をつくる工程など、漢方記念館で見学しているような流れでオンライン見学会を行っている。さらに2022年からは、夏休みの時期に県外も含めた全国の小学5年生から中学生を対象に、クイズを交えながら楽しく学べるオンライン見学会を行うなど、広く漢方について学べる機会を提供している。
伝統と革新
「女性に寄り添う」という強い思いによって創業されたツムラ。ペニシリンやX線が発見されるよりも前から130年にわたりツムラは漢方と向き合ってきた。今ではさまざまな疾患領域に取り組み、そして「未病」領域の科学化や次世代ヘルスケアの普及をも目指している。
未病とは、健康と病気を「二分論」の概念で捉えるのではなく、心身の状態を健康と病気の間を連続的に変化するものとして捉え、この全ての変化の過程を表す概念である。2017年2月に閣議決定された国の「健康・医療戦略」においてもその重要性が盛り込まれた。超高齢社会を迎えた日本において、この未病の概念や、それに向き合う漢方の役割はますます大きくなっている。
ツムラの基本基調「伝統と革新」における伝統とは、革新の連続によって初めて築かれるものである。日本の伝統医療分野の一角を担うツムラは、日本の漢方を守り、発展させていくためには、自身がそれらを発信すべき企業であるという認識を持つことが大切だと考えている。そしてその一翼を担っているのがこのツムラ漢方記念館なのである。同館は今後もツムラの伝統と革新を記録し、広く社会に伝える施設として重要な役割を担っていくであろう。
【編集後記】(ウェブ電通報編集部より)
「自然と健康を科学する」というツムラの経営理念には、アタマが下がる。自然も、健康も、奥深いものだ。解明しきれるものではない。たとえて言うなら「宇宙を科学する」ようなものといえる。でもツムラは、その果てしなき挑戦を続けている。
考えてみれば、自然と健康は、親和性が高い。自然な状態が、健康にとって一番であることは誰もが分かっている。でも、その自然な状態を維持することは難しい。高度な文明をつくってしまったことで、さまざまな「不自然」なことに囲まれているからだ。
もちろん、「不自然なこと」に利点はある。高速で移動ができる。遠く離れた異国の人とリモート会議もできる。ただ、それが「健康なこと」か?と問われると、うーん、と考えてしまう。
ポイントは、「科学する」ということだと思う。「自然な状態」ってなんだろう?「健康な状態」ってどういうことだろう?ということを、考えに考えるということだ。真正面から向き合って、とことん考える。考え尽くす。それが、科学する、ということではないだろうか。