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Dentsu Design TalkNo.23

紀里谷和明の「シナジー制作術」

2014/03/21


 

Dentsu Design Talk第108回(2013年12月25日実施)は、「紀里谷和明の『シナジー制作術』」と題して映画監督・紀里谷和明氏の単独トークを開催した。写真、PV、映画、さらにはソーシャル・ネットワーキング・サービス「FREEWORLD」の開設など、常に新たな可能性に挑戦し続ける彼の半生と、クリエーティブ業界の行方に関する自身の見解を探っていく。
 

 
(企画プロデュース:電通人事局・金原亜紀    記事編集:菅付事務所  構成協力:小林英治)

 

紀里谷和明氏
紀里谷 和明氏
演出家/映画監督/写真家

 

#「クリエーティブ」との運命的な出会い

 

「今日はみなさんに自分をプレゼンさせてください。そして、まず俺がどういう人間なのかを分かってもらいたい」。

紀里谷氏はまず、自身の半生についての話題からトークをスタート。何事にも疑問を持っていた幼少期、日本の教育システムに強い不満を持ち始めた小学校時代、中学卒業後「移住のつもりで」赴いたアメリカでの落ちこぼれ学生生活へと話は進む。10代で突如訪れたターニングポイントは誕生したばかりの「MTV(Music Television)」との出会い。それが自身の人生に大きく影響を与えることになったと振り返る。「僕は人口2000人の日本の地方の小さな町で生まれ育って、東京をすっ飛ばしてアメリカに来てるわけです。だから、クリエーティブとかアートとか、そういったもので人が生きていけるものだとは思ってなかった。全く今まで想定もしていなかった扉が(アメリカに行ったことで)俺の中で開いたんです」。そうやって未知なる世界との遭遇を経験した彼は、公立の学校から全米一のアートハイスクール、Cambridge School of Westonへと転校。アートに関する「充実した英才教育」を受けることとなる。
 
その後、友人と起業したデザイン会社が倒産する「暗黒時代」を経て、次のターニングポイントはそう待たずに訪れる。

1992年、アップルがMacintosh Quadra 950を発表。「本体も含めると50万から80万円ほどのマシーンを、意を決して買いました。Photoshop2.0を見たからです。これにより初めてカラーで写真が加工できるようになったのが衝撃でした」。そこからグラフィックデザイナーとしての道を歩み始め、ヒップホップ雑誌『Vibe』や、日本の雑誌『CREA』などに載せるためのデジタル写真を撮り始め、写真家として成功していった。

 

#PV製作、そして大ヒット作『CASSHERN』へ

 

「しかしその後、自分の中で違うものが芽生えていくわけです。動画を撮りたい、写真はもういいよ、と思うようになった」。

2001年、彼はカメラの世界から映像の世界へとシフトチェンジを果たす。アメリカから取り寄せたFinal Cut Pro 2を使って、THE BACK HORNや宇多田ヒカルのPVを撮影するようになったのだ。その中でも、当時大ヒットとなった宇多田ヒカル『traveling』のPV製作で「足りないものはCGで補えばいいんだ」と気づいたと述べる。そして、その方法論は新たな可能性として初監督作品『CASSHERN』にも繋がった。
 
CG作品を作るには無理があるタイトな予算の中で『CASSHERN』を製作した。作業は、秋葉原でパーツをそろえてコンピューターを30台組み立てるところから始まり、当時の映画業界ではほぼ使われなくなっていたAfter EffectsでCGを作成するような異例の事態だったと振り返る。そんな低予算のなかでも、結果的に『CASSHERN』は大ヒットを記録。製作様式や脚本作りにおいては日本の従来型の映画界からバッシングをくらう一方、このデビューによってハリウッドへの道は開けた。「CAA、ICM、ウィリアム・モリス、エンデヴァー、UTA全5社のエージェンシーから電話がかかってきた。直電でかかってきて、今すぐ日本に行きますから会ってください、と言われたのです」

 

#日本、そしてスタジオ・システムからの脱却

 

その後の映画活動はそう楽なものではなかった。リーマンショックによって企画途中の作品が一気に無しになる、いわく「二度目の暗黒時代」。そして、CGのレベルが追いつかないまま作り上げたため、前作ほどのリアクションが起きなかった映画『GOEMON』製作。
現在は2014年4月に公開予定のハリウッド映画『The Last Knights』(仮)の最終製作段階に取りかかっている。出演はクライヴ・オーウェンとモーガン・フリーマンという豪華キャスト。「とにかく一回スタジオ・システムから抜け出そう」として製作した作品だ。アメリカで、しかもインディペンデントに映画を製作しようとした理由について彼は、まず日米の映画業界では「スタジオ・システムによって、クリエーターが奴隷のように使われていることもある」という問題点を強く指摘。さらに、なにより日本が「グローバルに通用する映画を撮るには物理的に不可能な状況にある」と語る。
 
日本の映画は数億、十数億という予算がほとんど出なくなっている時点で「非常に厳しい媒体」であると言う。そして、3D映画『ゼロ・グラビティ』を例に挙げ、「日本の映画予算の低下と反比例するように、世界の映画の予算やクオリティは上がってきている」と。さらに、自身も幼少期から言われ続け、日本映画が停滞する原因にもなっているという既存の常識“できるわけない”という言葉に反発している。「なぜ日本の映画業界の人々はすぐに何にでも『できない』とか言うのか? そう言えるだけの人生を歩んできたのか、それだけのトライアルをしたことはあるのか? ほどんどそういうことをしたことがない奴に限って『コレはダメだ、無理だ』と言う」
 

#クリエーティブへ主導権を戻す

 

さらに、「なぜこの仕事を始めたのか、なぜクリエーティブな仕事をやっているのかをもう一回見つめてみませんか?」と問いかけ、「『あなたは日本人だからそんなことはできない』と言われているのを、どこか暗黙の了解で受け入れてしまっているところがあると思いませんか?」と会場に投げかけた。
 
「僕はクリエーティブへ主導権を戻したいんです。システムにクリエーティブが使われるのではなくて、クリエーティブのためにシステムが動くような世界を創りたい。様々な問題を超越していけるのがクリエーティブ。そして人間性や感情をベースにしているのが真のクリエーターだと思う」。そんな強いメッセージで熱いトークは締めくくられた。

 

(了)