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デジタルの旬No.14

集合知やマッチングが
空間もビジネスも変える
──ネットと建築の新しい関係
~建築家 吉村靖孝氏

2015/04/20

デジタルの旬

建築業界は、一見するとITのトレンドとは少し縁遠いものに思えるかもしれない。しかし、振りかえれば1990年代には手書きの設計図面がCADによるデジタル技術にがらりと取って代わられた。その結果としてコンピューターだけが可能にする建築デザインに大きな期待を寄せる建築家も現れ、建築界の新しい潮流をつくりつつある。また、情報の集積や人々をつなぐ機能をインターネットが担うようになる中で、では建築はいったい何をすべきなのかもあらためて問い直されている。今回は、建築という視点から見えてくるネットやデジタルの持つ影響力や可能性について、注目の新進建築家に話を伺った。
(聞き手:電通デジタル・ビジネス局 計画推進部長 小野裕三)


1000年の時間が作り上げた建築を、1000人×1年の集合知で実現できるか

──ご自身と、デジタルやネットとの出合いはどのようなものでしたか。

吉村:92年ごろですが、大学時代にパソコンでCADやモデリング、レンダリングのソフトを使い始め、95年ごろからネットに触れるようになり、当時はウェブサイトをつくるバイトなどもやっていました。コンピューターと建築がどのように関わればいいのかを最初に考えたのは、大学4年の時に研究室で取り組んだ「せんだいメディアテーク」(註)のコンペの時でした。当時、建築とコンピューターの関わりにおける建築家の仕事は、映画の「ブレードランナー」的というか、コンピューターの世界観のイメージを建築空間に翻訳するのが主流でした。でも私たち (古谷誠章氏の研究室)は、コンピューターの本質は、モニターに映っている表の部分ではなく、アーカイブやデータベースの能力、誰でもアクセスできること、など裏側の部分にあると考えました。ですので、検索することで簡単に情報を取り出せる世の中が訪れたとき、建築はどうなるのかという議論をしていました。

(註)せんだいメディアテーク
仙台市に建つ公共施設で、図書館・ギャラリー・映像ホールなどの機能を併せ持つ「日本初のメディアテーク」として計画された。コンペの結果、伊東豊雄氏の案が採用され、その斬新な構造や考え方から、九〇年代の建築史に残る画期的な建築となった。また、吉村氏も参加した古谷案は伊藤案に次ぐ優秀賞として実際には採用されなかったものの、そこに見られた情報化時代における建築への新しい視点は建築史的にも高く評価されている。
 

 

──その時代にコンピューターの裏側が重要だという発想をしていたのは、かなり先駆的ですね。

吉村:そのコンペで、「せんだいメディアテーク」の図書館の姿として私たちが考えていたのは、コンピューターが検索性能の部分を担保するので、建築は「散策できればいい」ということです。ギャラリーや図書館をばらばらに館内に分散配置していて、図書館に来たはずの人がギャラリーの展示を見始めたりします。また、図書館では本を秩序立てて並べることもやめて、人が本の並び順を次々に変えてしまうのです。建築はむしろ混沌(こんとん)とした空間をつくるのがふさわしいという考え方で、そこに人が介在しています。例えば夕焼けが好きな人は西側の方にいることが多くて、冷たいところが好きな人は吹き抜けの空調の関係で温度が低い下の方にいたりして、本を返却する際にはそれぞれそのような場所に思い思いに本を置いていきますから、なんとなくその人たちが好む本がそれぞれの場所に集まっていくことになります。空間が持っている情報と本が持っているテイストが結びついて、なんらかのばらばらとした整理しきれない傾向を帯びるはずという考え方です。

──その後、ご自身でも建築とネットが深く関わるような取り組みを多く手掛けていますが、建築家としてネットに強い関心を抱く理由は何なのでしょう。

吉村:空間とネットはひと続きであるという感覚を持っているからだと思います。例えば、都市というものがどのように大きくなってきたかを考えたとき、まず徒歩圏から始まり、馬車になって、電車になって、高速鉄道になって、どんどん大きくなった先にネットがあるという捉え方です。物理的な距離を超えた先に、距離が消滅した空間としてネットがあり、またそれは現実の空間にも何らかの影響を及ぼしているという確信があります。

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──クリエイティブコモンズの仕組みを建築の設計に応用する「CCハウス」という取り組みをされていますね。ネット上に設計図面を公開し、それを元に誰でも自由に改編して建築をしていいというものです。このようにご自身の設計したものがネットを通じて二次創作的に広がっていくことにどんな魅力を感じたのでしょうか。

吉村:一つは建築をオーソドックスなものに引き戻したいということです。今の建築家は特殊で珍しいものをつくる存在となっていて、広がりがないと思います。僕はこの環境にストレスを感じています。どちらかというと、例えば「民家」というオーソドックスなものにアプローチしたいと思っています。しかし、それは一人ではできません。というのも、「民家」は1000年以上かけて多くの人の知恵を蓄積して洗練されてきた形で、今の建築家が一人で到達するのは無理なのです。そこで新しい「民家」というものを考えるに当たって、もう1000年待つのは無理なので、1年×1000人で取り組めばできるのではと考えました。誰かが書いたものを書き換えたり奪ったりを繰り返していくうちに、普遍的なものに近い何かができるのではと思ったのです。

──それはつまり、集合知的なものに期待しているということですね。

吉村:そうですね。でも一方では全く逆の視点も持っています。建築家は特殊なものをつくってきたように見えて、実は型にはまってしまっていて、本当に面白いものは出ないと感じています。型にはまっていない人が図面に触われば全く見たことがないものが生まれるのではという興味はあります。

──アプリを使って一般の人でも家の設計が簡単にできる「アプリの家」という取り組みもやっていますね。

吉村:これは、CCハウスで考えたことの延長にあるのですが、建築家が強い型を用意して、できるだけユーザーが関わる部分を絞り込まないと、ユーザーは手を付けられないということに何年もかかって気付きました。それで、このアプリをつくったのです。

──ネットの世界では、多くの個人がさまざまなコンテンツをつくって発信するようになっていますが、一方でそのことによって創造のレベルが全般的に低下しているという指摘もあります。

吉村:そのようにハードルが下がることはいいことです。新しいものが生まれる可能性があるので、基本的には肯定派です。ただ、母数が増えれば当然、全体的には質は下がると思います。ですので、プロがどのような段階でどう関わっていくかが重要で、例えば先ほどの「アプリの家」のように、ユーザーが自由に振る舞えるようにするために、ある種の制限をするということが必要です。どこまで建築家が関わるべきか、線引きを考えていかなければならないでしょう。ですが、専門的な職能を持っていない人がつくったものでも、素晴らしいものは素晴らしいので、今まで世の中に出るまでにいろいろなフィルターによって仕分けられてしまっていたものをネットがすくい取る可能性はあると思います。

──デジタルの世界では最近、ビッグデータが急速に注目されています。ビッグデータと建築という関係では、何か感じることはありますか。

吉村:建築こそビッグデータだと思います。例えば、「民家」はたくさんのビヘイビア(ふるまい)の集積が定着したものだといえます。それが先ほどの1000年を1年でという話になりますが、その際に一つ難しいのは、建築は50年や100年はもつので、それを1年で集積されたビッグデータを基につくることが正しいかどうかの判断をしていかなければならないことです。

 

ネットによるマッチングがあらゆる空間を変えていく可能性に賭ける

──その他に、建築とネットの組み合わせで興味を持っている事例はありますか。

吉村:海辺の別荘を一棟丸ごと貸す「Nowhere resort」というサービスを僕の家内がやっているのですが、これもネットの一つの可能性だと思います。アーカイブと検索機能により、空き部屋とニーズをマッチングする受け皿をつくることができます。今までの建築は、例えば図書館では十進分類法で区分し、空間的に検索性能を担保していました。ビルディングタイプについても、ホテル、オフィス、住宅などと区分してきました。しかし、ネットの検索とマッチングの機能により、その区分を外して違う形で使う可能性が生まれてきます。実際に、Nowhere resortは別荘ではありながら、イベントなどさまざまな用途で利用されています。さらに言えば、今、日本には空き家が八百数十万戸もあり、一方で毎年90万戸も住宅をつくり続けていますが、ネットのマッチングによって最適化していくとそのようなアンバランスも解消されるかもしれません。

──そのようなネットのマッチング機能で、建築と社会の関係も変わっていきそうですね。

吉村:建築を使って社会を変えるというのは大げさすぎますが、社会を使って建築を変えることは可能なのかもしれません。ネットを使ってマッチングをどう考えていくかに興味があり、マッチングできるものの範囲を広げることができるんじゃないかと思っています。空きオフィスとか、空き庁舎とか、そういうものもマッチングできます。そのための仕組みづくりもできますし、建築的にも今までの使い方とは違う使い方を短期的につくるようなことができないかなと思っています。それがビジネスなのか、作品なのかは分かりませんが、気になる分野です。

──最近の話題としては、IoT(Internet of Things、モノのインターネット)もあって、スマートハウスなどが注目されていますが、建築家の観点から思うことはありますか。

吉村:スマートハウスで面白いのは、無線化していくことです。建築は土地に縛られた構造で、壁の中にはさまざまな配線が張り巡らされています。そこから解放してくれる手段としてスマートハウスがあり、建築が巨大なインフラから解放されて少しずつ自立していけるというイメージがあります。

──著書の中で、「コンピューターが出てきたときに、僕たちは少し浮かれ上がって、全く今までと文脈が切れたものがつくれるんじゃないかと考えたと思うんですよ」とありますが、どのようなことだったのでしょう。

吉村:単純に言うと、コンピューターを使って、壁や天井の境界をなくしたフニャフニャしたものやデコボコしたものがつくれるんじゃないかと思った時期があったということです。95年に卒業設計をやっていたのですが、当時流行っていたそのようなデコンストラクション(脱構築)派の建築に僕自身ものめり込んでいたわけです。そんな時に阪神・淡路大震災が起きて、高速道路が倒れ、柱が飛び出し、壁が傾いている状態を現実に目の当たりにして、自分のやっていることに対する強い嫌悪感を覚えました。以来、建築の手法としてのデジタルではなく人と人をつなげるネットの可能性に期待するようになりました。

──CADなどによる建築設計のデジタル化について、肯定的に捉える建築家もいます。その一方で、デジタル化で設計図がうまくなったように感じるけどそれは錯覚で、手書きでないときちんとした思考ができないと否定的な建築家もいます。

吉村:CADによるデジタルの図面にはうまい下手がないといわれますが、僕はうそだと思います。それは、ほぼ手書きの能力に連動していて、まず頭の中でどのように描くか考えることが重要なんです。ただ、僕はそのようなことよりも、一緒に作業を進められるかという点が大切だと思っています。というのも、デジタルだと個別に一人一人で進めてしまうことができるのですが、やはり僕は、プロセスを共有することで奥行きのある設計ができると思っています。いろいろな横やりが入ってこそ良いものができていくので、その部分がないことがデジタルのデメリットです。以前、手書きだけで設計するワークショップをやりましたが、参加者はパソコンが使えないことでこんなに設計が楽しくなるのかと喜んでいました。それはやはり手書きだと共有して議論できるからです。

──なるほど。デジタルと手書きではワークスタイルそのものが変わってくるということですね。ところで、自動計算によってコンピューターが建築の形を自動生成するといったようなことには興味がありますか。

吉村:僕自身はあまり興味ないですね。コンピューターだけでこれが正解と出たものは受け入れがたいです。ただ、たくさんのバリエーションが同時に出せるというのは良いと思います。議論のたたき台になりますので。

──これまで人の手では実現できなかったデザインをコンピューターが可能にすることに可能性を感じる建築家もいますね。

吉村:そういう方もいます。「パラメトリックデザイン」や「アルゴリズミックデザイン」といわれる、われわれが見たこともないデザインをコンピューターが吐き出すという考え方ですが、今のところそれらの吐き出された形態はフジツボや雲みたいな形ばかりで、僕から見ればほぼ一緒に見えて、多様という感じはしません。

ゾーニングや効率性でないところに、これからの建築の可能性がある

──著書の中で、「建築は、建築にできることを研ぎ澄ませていかないと、多くの人はネット上のコミュニティ、ネット上の買い物、ネット上の教育で満足してしまうようになる」と語っていますが、ネット空間をある種の脅威と捉えているのでしょうか。

吉村:脅威であるからこそ共存しなければなりません。結局、24時間の生活時間の奪い合いだと思います。

──「コンピューターが検索を、建築が散策を受け持つ」という話が先ほどもありましたが、インターネットと建築の機能分化が起きてくるということでしょうか。

吉村:そうですね。すみ分けです。ネットはある意味、見たいものしか見られないという側面がありますが、建築はパブリックであり、見たくないものも目に入ってきます。その可能性を追求していくことだと思います。あえて見たくないものを見せていくとか、もう少し原始的なものに戻っていくという方向性です。あらゆる近代化は、例えば炎から熱と光を分けて取り出すように、成分を分解してそれぞれを分析して高めてきましたが、その延長にビルディングタイプという形態もあるわけです。そういう形態から、雑多に一体化したところに再び戻るということだと思います。

吉村氏

──それはある意味で、建築のモダニズムの否定ということにもなりませんか。

吉村:そうかもしれないですが、一度踏みとどまり、考える必要があるのだと思います。

──ご自身もメンバーとして参加された、先述の「せんだいメディアテーク」コンペの古谷案は、まさにそのような雑多性を目指した建築案でした。ネット化による情報検索が浸透した今、あらためてあの案について思うことはありますか。

吉村:まだ、足りないと思います。情報端末を手に持って館内を回るという案だったのですが、それ自体が結構うっとうしいことで、ゴーグルやウエアラブルなど、端末を持っていることを意識しないで入れる状況になった時に、ほんとの意味であの案が具現化できると思います。

──ネットの世界は情報が最適化されていく仕組みになっていて、それはいい面もありますが、一方で情報がタコツボ化していくという側面があります。それに対する問題意識は感じていますか。

吉村:感じます。逆にいうと、建築の可能性はその部分にしかないと思います。ですので、建築の空間をきれいにゾーニングするとか都市計画で効率的に区分していくのはあまり好きではないです。それはネットでも提供し得るものですから、そうではなくていろいろなものが混ざっているというのが建築の可能性だと思うのです。ネットは都市部における人と人の距離感に近いもので、雑踏の中で人の声を聞こうと思えば聞けるし、嫌なら気にしないようにもできるという関係です。それに対して建築がつくるのは少しウエットな感じということで、それはそれの良さがあると思います。

──『建築家の読書術』という著書の中で、「はずれの読書が必要」という発言があります。つまり、今はネットで検索すれば事前に本の中身がある程度わかるので、「はずれの読書」というものがなくなってしまいつつあるが、実はそういう「はずれの読書」こそが必要なのだという主張で、興味深く受け止めました。

吉村:僕自身、例えばネットについてのローレンス・レッシグの名著『CODE』を、そのタイトルから建築の本と勘違いして買ったのですが(笑)、その「はずれの読書」が実は大変参考になりました。知らないものの知見を広げてくれるのは、生きる上での根本的な欲求だと思います。建築もそうで、赤ちゃんの頃は家に拘束されますが、成長するにつれて少しずつ行動範囲も広がっていきます。そうしないと楽しみは生まれないので、読書も自分の範囲じゃない本を読む「はずれの読書」が必要なんじゃないかと思うのです。

──これからのデジタルやネットと建築の関係はどのように進んでいくと思いますか。

吉村:建築はつくられた時点で必然的にリアルなものとなり、嘘がつけません。それがつまらなさであり面白さでもあり、それはこれからも変わらないでしょう。どれだけネットに時間が食われても、ネットがリアルになることはないです。ただ、建築の牙城がネットに崩されてきている状況はあるので、最後の一本の柱が何なのかを見逃さないように考えないといけません。手探り状態ですが、たぶん最後は建築もただの小屋みたいなものに戻っていくんじゃないかと思います。社会のネット化が進めば、劇場も学校も病院も図書館も、あらゆるものがいずれ小屋の中で済むような状況になる。そこに至るまでのプロセスやその小屋をどれだけ豊かなものにできるか、ということを建築家は考えるべきです。