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地域創生と伝統工芸No.3

「久保田」と手すき和紙との出会い。
そして伝統工芸・和紙の新しい挑戦が始まった。
~「久保田」の和紙ラベルを制作する和紙工房を訪ねて~

2015/08/19

萬寿、碧寿、千寿などが国内外に出荷され、本年、発売30年を迎えた日本酒「久保田」(製造:朝日酒造)。その一本一本に貼られている和紙ラベルを手すきで制作しているのが、「越後 門出和紙/高志の生紙工房(こしのきがみこうぼう)」(新潟県柏崎市)と「小国(おぐに)和紙生産組合」(同長岡市)である。

「久保田」と伝統工芸である手すき和紙はどのように出会い、そして今後、どのような方向に進もうとしているのか。
新潟大大学院准教授の長尾雅信氏と電通CDCの若林宏保氏が、二つの工房を訪ね、伝統工芸・手すき和紙の現状と未来を探った。

膨大な和紙ラベルの発注。

しかし、社長の情熱に、腹をくくった

「久保田」が誕生した1985年大雪の日。当時の朝日酒造の社長・平澤亨氏(故人)が越後 門出和紙を訪ねてきた。新潟の風土・環境という「原点に還る」ことで地元の魅力を発信しようと「久保田」を生み出し、ラベルには手すき和紙を使うと心に決めた人物である。当時を門出和紙の小林康生氏はこう振り返る。

「心配だったのは、とにかく枚数でした。膨大な量を平澤社長はお考えでしたので。当時、職人は私を含めて3人。1人は外国人で1年たてば帰国してしまう。その状況でこの数量をこなしていくのは、並大抵ではありませんでした。

しかし、本物を世の中に広めたい、という真摯な情熱が平澤社長にあった。その思いはうちも同じでした。だから、『久保田』と運命をともにすると、腹をくくったんです」

「久保田」のラベルは和紙を2枚、重ね合わせた二双紙である。当初は手貼りだったが、2年目には機械によるラベル貼りがスタートする。
「手すき和紙は機械に合わないから使えない、とみんな言うんですよ。機械に通らないと。けれど平澤さんは、ラベル貼りの機械化に当たって、『機械を和紙に合わせて作りなさい』と。何回失敗しても、私に紙の方を改良してくれとは一言も言いませんでした」(門出和紙・小林氏)

越後 門出和紙 小林康生氏

そこには、「原点に還る」というコンセプトの下、あくまで和紙にこだわった当時の平澤社長の情熱が感じられる。

1年遅れて、小国和紙生産組合でも「久保田」の和紙ラベルに取り組むようになる。工房を運営する今井宏明氏が、その経緯を語る。
「義父がその頃、門出和紙で手すき和紙を習っていました。その関係で、こちらでも携わるようになったのです。規模の大きな仕事でしたから」(小国和紙・今井氏)

手すき和紙のラベルで新潟の良さを表現する。

それが結果的に伝統工芸を支え、育てた

朝日酒造側は、単に和紙ラベルを発注しただけではない。サポートも惜しまなかった。門出和紙の小林氏に平澤社長は「困ったことがあったら、何でも言ってくれ」と話し、設備投資面などの相談に乗ってくれた。

小国和紙生産組合では、紙すきの道具を手配してもらったという。和紙職人同様、道具をつくる職人も減少傾向にある中、大きな助けになった。
淡麗辛口という、これまでにないすっきりとした味わいを提唱した「久保田」は、やがて右肩上がりで生産が伸びていく。それと共にラベルの発注枚数も増加。和紙工房にとっては、手すき和紙をビジネスとして成立させるベースとなった。

「それを考えると、『久保田』というのは奇跡ですね。最初から大量に発注して。しかも、朝日酒造は企業メセナとしてやっていない。自分たちも食べるためにやっているんです。風土の酒を売る。そのために風土を全部セットにする。それが文化事業というか、伝統工芸の復興に必然的につながったのですから」(小林氏)

「久保田」という日本酒の誕生、そのラベルが、結果的に新潟の和紙工房を育てた。さらには、高知県で断絶寸前にあった和紙の原料であるコウゾを買い支えるという構図までもが出来上がったのである。

「久保田」の和紙ラベル

紙の未来の使い手を育てていきたい

〜小国和紙生産組合〜

小国和紙生産組合では、一時は「久保田」の和紙ラベル制作が売り上げの約9割を占めていたが、現在では6割台になっている。「久保田」がルーティンワークとなったおかげで余裕ができ、仕事の幅を広げることに成功したのだ。

例えば、着物の札紙。コウゾの和紙に渋柿の渋を塗ると強度が増し、水に濡れても破けにくい。この和紙が反物の製品番号を書き入れる“製品タグ”として重宝され、県内の着物の産地に納めていた。その生産者が全国的に減ってくると、京都からも発注が来るようになった。また、この和紙は壁紙としても需要がある。中越地震でクロスの壁紙が切れてしまったのに対し、無傷だったことから注目を集めているのだ。

小国和紙生産組合は、さらに次を狙っている。それが「紙の未来の担い手」の育成である。

「妻が長岡造形大の非常勤講師をしていた関係で、若い人たちの中に『紙の未来の使い手』を育てていきたいと。日本には紙があふれていて、純粋なコウゾの和紙が欲しいと思っても、見つけられない人がほとんどです。

それは、私たちの仕事があまり知られていないということ。何とかしないと将来、手すき和紙という存在が薄れるのではないか、と感じまして。それで、大学内に紙すきサークルをつくったのです」(今井氏)

小国和紙生産組合 今井宏明氏

サークルは7年目になり、部員が20人以上。部員たちがこの工房で実際に和紙を作り、それを材料に作品を制作する。材料の提供など、小国和紙生産組合はこの活動を全面的にバックアップしている。その一方で、ワークショップなどの手伝いを学生たちにしてもらうという形だ。
このサークルから工房に就職する学生も出てきて、後継者の育成にも一役買っている。工房スタッフの若返りも進んでおり、40歳代までで8人。そのうち、20〜30歳代が4人を占める。

「若い人たちやさまざまな作家の方々にうちの紙を使ってもらうことで、新しいビジネスが生まれる。また、マーケティングの専門家の方の協力もいただけている。そういう輪を広げていこうとしているところです。こういうチャレンジでができるのも、『久保田』があるおかげだと感じています」(今井氏)

実際、小国和紙生産組合では、さまざまな和紙商品を生み出している。照明器具をはじめ、和紙によるウエディングドレスまでラインアップされている。

さまざまな和紙の商品

1000人に1人が本物を使えば、伝統工芸はつながる

〜越後 門出和紙〜

門出和紙の小林氏が考えているのは、新潟の手すき和紙業界の底上げだ。
「うちは今、おかげさまで経済的には困っていません。しかし、新潟県内で紙すきを始めている若い人たちは、決まった仕事がなくビジネスとして成り立たない。だけど例えば、大学の卒業証書に和紙を使用してもらうなど、ベースがあればつながっていくんですよ。後はその人の努力で何とかなる。その基盤をつくっていきたいと考えています」(小林氏)。

製品の“出口”、販路を広げていってもらいたい、これこそが一番の願いであり、そうすれば後継者は回転していくと、小林氏は強調する。

実際、埼玉県小川町の公立高校の多くは、卒業証書に小川和紙を使用し、栃木県でも多くの高等学校で卒業証書に同県産の烏山和紙が使われている。それが伝統工芸を支えるベースになっている。
「また、和紙の本質的な使い方の楽しみといえば、障子でしょう。透かされて見られる紙ほど切ない物はない。厚さも均一でなければいけない。すき手にとっては、技術を完全に保持しなければできない。障子紙は安いものなら1本200〜300円、それが手すき和紙だと1万円近くします。でも、10年間楽しめる。和紙が呼吸をして空気を出し入れし、明かりも美しい。はるかに機能的なんです。

伝統工芸全体を考えたとき、そうした文化を意識して使ってくれる人がいることが大切なんですよ。生活全てにはこだわれないでしょうが、和紙にこだわる、漆器にこだわる。そういう人が分散して1000人に1人ぐらいいればいい。1人が一つだけこだわってもらえる社会になれば、全国の工芸作家が最低限回って、何とか日本の文化が守っていけるかな、と感じています」(小林氏)

全てに本物を求めるのは難しいとしても、1人1点、こだわりのものを持つ。そのためには、伝統工芸時代の魅力を再編集し、新たな情報として発信していくことは欠かせないだろう。


取材を終えて

伝統に宿る革新

長尾 雅信
新潟大大学院 准教授/博士(経営学)
 

二つの工房は「久保田」のラベルに依存するのではなく、それぞれ使命感を持って新しい可能性に挑戦されています。

真の伝統工芸は内に革新を宿していることがうかがえました。自分たちの技を信じ、誇りがあるからこそ、信念を持つ他者と敬意を持って対話ができる。慣れた領域にとどまらず、使い手との対話をためらわず、譲れないところは譲らず、現代と折り合いをつけていく。

また、伝統工芸を育む自然環境、原料に感謝して、その風合い、機能が最大限生かされるように心を配る。手間はかかります。けれども朝日酒造のように、それを 理解し、支持する組織や人たちは少なくありません。現に二つの工房を訪れるたびに、そういう人たちに出会います。世界からの来訪者も多い。

日本には、同様の姿勢を持った工芸家が各地にいるはずです。その人たちの存在が世に広く伝わり、志ある他者とつながって、革新が生み出されることを期待しています。


ものづくりと伝統工芸の美しい出会い

若林 宏保
電通CDC /クリエーティブ・ディレクター
 

「久保田」のケースの最大のポイントは、ブランド戦略の根幹に和紙のラベル活用を位置付けたことである。それにはさまざまな苦難があったが製造チームと産地側が共に改良を重ねながら、困難を乗り越えていった。   

そうした努力が「久保田」のブランドイメージと売り上げを高めると同時に、和紙産地側には一定の継続的な発注を生み出し、衰退化していく和紙の工房を守ることにつながった。また一定の収入を得ることで和紙工房は自立化、本来自分たちがやりたかった新しい事業も生み出した。

この企業と産地の存続を懸けた情熱や挑戦が、後の美しい物語を生み出していったのである。和紙以外にも日本にはさまざまな伝統工芸や資産がある。


企業ブランド理念と地域文化の高次な出会いがもっと増えると、地域創生への好循環がもっと生まれるだろう。
今回のケースは企業と地域の関係に考える上で示唆に富んだ事例だと思われる。