印刷の時代、放送の時代、ネットの時代、そしてその先へ
2017/02/02
MITメディアラボをテーマとしたシリーズの第2回目。今回取り上げる准教授のセザー・ヒダルゴ氏は、メディアラボならではの最先端のデータ解析やデバイスを活用したさまざまなプロジェクトを進める一方で、「情報とは何か?」といった哲学的ともいえる思索にも向き合う。印刷の時代からネットの時代への変遷という、人類史的なスケールを持つ彼の視座から見えてくる、今のデジタルテクノロジーが持つ課題や可能性とは何なのか、そのことを語ってもらった。
※取材時には、ヒダルゴ氏の研究室所属のクリスチャン・ハラ=フィゲロア氏も同席。
【プロジェクト紹介】
氏が手掛けるプロジェクトのひとつである「集合的記憶」のプロジェクトは、印刷術の誕生、産業革命、電話やテレビの発明、などの出来事が、人類全体の持つ「集合的記憶」をどのように変えたかを、多くの歴史的著名人にまつわる資料をデータベース化して解析しようとするもの。氏が率いる「マクロ・コネクションズ」の研究グループではその他にも、米国全土に関する公共データをインタラクティブな視覚化によってユーザーに提供する「データUSA」などを手掛ける。
インターネットが生み出した、新しいタイプの「有名人」とは?
小野:あなたは、印刷の時代からインターネットの時代へというような、大きな視点でのテクノロジーの変革に着目しています。
ヒダルゴ:根底にあるのは、人々の間のコミュニケーションを形成するテクノロジーが、すなわち社会を形成するテクノロジーである、という考え方です。テクノロジーが新たなコミュニケーションをもたらしたとき、それがどんなものであっても、私たちを新しい形で結び付け直します。人間の歴史を理解する最善の方法は、コミュニケーションの在り方によっていくつかの時期に歴史を分割することです。私たちの社会では誰が重要であって、つまり私たちとは何者なのか、ということをめぐる考え方は、ずっと変化してきました。
小野:あなたはこんなことを指摘しています。印刷のない時代には王や貴族が有名人で、印刷の技術が出てきたことで科学者や芸術家が有名人になり、そしてラジオやテレビの時代にはパフォーマーが有名になった、と。では、インターネットの時代にはどんな有名人が現れるのでしょう。
ヒダルゴ:一つには、インターネット自体が新しいメディアですので、ソーシャルメディアの創業者のような、未踏の領域のパイオニアとなった起業家が有名人になっていますね。もう一つのタイプは、個人的な形でのメディア消費が拡大していることで、例えばポルノスターが増えています。それは私の研究チームがデータから発見したことです。
フィゲロア:さらに、データでは昨年、初めてユーチューバーとビデオゲーマーが有名人の仲間入りをしました。つまり、インターネット上で素早くメッセージを広めることのできる人が有名になっているのです。
ヒダルゴ:もう少し深く見ていくと、インターネットがもたらした変化として、多くの人が記録されるようになり、また記録されるような行動に誰もが参加できるようになったことがあります。たくさんの人が絵画や音楽の創作に関わり、人々の関心も振り分けられていく結果として、中程度に有名な人がたくさん生み出されます。これからは、ゴッホやビートルズのようなレベルの有名人はもう出てこないでしょう。
小野:本当にビートルズのような有名人はもう現れないのでしょうか。
フィゲロア:インターネットがまだ普及してなかった20年前、みんなが家で同じテレビ番組を見ていた。でも今は、家でそれぞれが見たい別々のものを見ていますよね。
ヒダルゴ:それでも、ごく短い間だけものすごく有名になるような人はこれからも出てくるでしょう。私たちの社会を形作っているシステムが、有名さを生み出すようにできているからです。例えば、米国の大統領選挙では、情報を流すのがラジオかテレビかソーシャルメディアかにかかわらず、候補者は多くの人の関心を集めます。
バーチャルリアリティーの体験が生み出す、インターネットの次のステージ
小野:印刷の時代の科学者や芸術家は、科学や芸術というコンテンツを生み出しましたし、テレビなどの時代のパフォーマーは映画や番組、レコードといったコンテンツを生み出しました。インターネット時代のユーチューバーやビデオゲーマー、ブロガーはどのようなコンテンツを生み出すことになるのでしょう。
ヒダルゴ:インターネットには、従来のメディアと重複する部分がとても多い。たくさんのテキストがあって、いまだに印刷偏重のメディアです。
でも一方で、着実に次のステージに進んでいます。テキストで語られるものではなくて体験するようなものが出てきている。これからはもっとバーチャルリアリティー(VR)が広がって、体験や空間が多くの人に共有されるようになります。そして、その体験をデザインできる人が有名になるでしょう。
小野:そういう体験をデザインする人たちを、何と呼べばいいのでしょう。
ヒダルゴ:私は、彼らを「体験作家」(experience maker)と呼びたいですね。
フィゲロア:インターネットというのは独特なメディアです。印刷もラジオもテレビも、それは皆一方的にコミュニケーションするものでしたが、インターネットの空間では人々が一緒になってコンテンツを作ることができる。これはすごく新しいことです。
小野:それは、FacebookやYouTubeなどのソーシャルメディアの影響力がさらに増していく、ということになりますか。
ヒダルゴ:世界は国際化がますます進んでいます。家族はバラバラの国で暮らすようになり、国籍の違う人々の交流は拡大しています。だからそこには、距離を超えて人々を結びつけるネットワークへの強いニーズがある。私は、VR空間の中で、世界各地に離れて暮らす私の家族が一緒にクリスマスを過ごすような未来を想像しています。
小野:そのVRについてですが、それほど広がらないのでは、と考えている人たちもいます。つまり、それはゲームなどのエンターテインメントに限定されている、と。
ヒダルゴ:今のVRコンテンツは、ものすごいジェットコースターやヘリコプターに乗せられる、みたいなものだったりしますよね。でもそれはテクノロジーが本来提供できるはずの感情的な深みを持っていない。私は、VRはドラマとかコメディーとか、もっと人間的なコンテンツに向いていると思っています。今のところまだほとんど開拓されていませんが、それこそが、VRをメディアとして爆発的に成長させる要素です。
小野:VRはこれから広告に使われるようになるという予測もありますね。
ヒダルゴ:新しいメディアの未来を予測するのは少し難しいのですが、広告でやらなければいけないことは、消費者が望む良質の体験をつくり出すことです。VRでは、自分のリビングルームにこの椅子は合っているかを試したり、オンラインショップにあるジャケットを試着してみることもできて、それは今のメディアの仕組みではできなかったことですね。VRの潮流と共に、今後広まっていくでしょう。
AIによる急な変化はトラウマ的になりがちだが、特別視すべきでない
小野:今までのインターネット広告で起きてきたことはアルゴリズムによって精度を高めることが主流でしたが、その流れはVRやその他のテクノロジーで変化するでしょうか。
ヒダルゴ:精度を高める流れは、それを止める要因が見当たらない以上、これからも続くでしょう。過去において、そのようなターゲティングが難しかった理由は、データがなかったからです。でもわれわれは、より多くの人々についてより多くのデータを持つようになり、広告をパーソナライズできるようになっている。まさにその人が望むぴったりの服を広告できるようになる。
小野:そのような流れの背景にはAIの進化もあるわけですが、あなたは講演などで、AIのことを判断するのに今の私たちの道徳を用いてはならない、と指摘していますね。
ヒダルゴ:私はそう信じてます。人間の知る能力というのはすごく限られていて、それゆえに人間の道徳的判断は時代を反映してしまっている。例えば今のわれわれにとって日常的な行動も、15世紀の時代であったら罰せられ、魔女裁判みたいに火あぶりにされていたかもしれない。それと同じことで、AIのような未来に関わる行動を、われわれの無知ゆえにわれわれの今の道徳で裁いてしまってはいけないと私は思うのです。
私は、人工知能も歴史上にあったたくさんの変化のうちのひとつにすぎないと思っています。例えば言語の発明、火の発明、お金の発明、共同体の発明。これまで人類が経験してきた、他の種と人類を大きく隔てることになったこれらの変化に比べて、人工知能がもたらす変化は決して大きいものではないと考えています。ただ、変化がごく短い期間で起こるため、トラウマが引き起こされるような難しい局面もあるのでしょうね。
小野:ご著書の中で、娘さんの出産の話があって、出産とは時間旅行のようなものだと言っていました。つまり、すごく原始的な状態にいる胎児が、突然、21世紀のすごいテクノロジーに囲まれた世界に運ばれてくる。それは生物としての人間とテクノロジーの間に巨大なギャップがあることを示唆していますが、このギャップは今後どうなるでしょう。
ヒダルゴ:テクノロジーがわれわれを圧倒して世界がばらばらになっていくような気がしているかもしれませんね。でも私は、歴史を生きてきた全ての人間は、みんな同じように思ってきたんだろうな、と思うんです。ちょうど1450年に印刷術が現れて全てを変えてしまって、みんなが「ちくしょう、これからどうやって生きていきゃいいんだ?」と思ってたみたいにね。
フィゲロア:古代ギリシアで、文字という技術が出てきて、そのことを哲学者のソクラテスはすごく憂慮しました。彼によると、文字では話を聞き返すことができないから、一方的な会話になってしまい、価値がない、と。きっと古代ギリシアで本を読んでいる人の姿というのは、ちょうど今のゴーグルを付けてVRの世界に浸っている人みたいに奇妙なものに映ったんでしょう。
AIは人間を破滅に追いやるのか、それとも幸せにするのか?
小野:確かにどんな時代でも、新しいテクノロジーに対する恐れというものはありました。しかし、人工知能が少し違うと思うのは、AIは人間のコントロールを離れて暴走する可能性があるということだと思いますが、どうでしょう。
ヒダルゴ:AIは自律性を持っていますが、それには二つのレベルがあります。一つには、機能が特化されたAIが、個々の物体に対して持つ自律性です。自動運転の車とか、携帯電話や冷蔵庫やその他の家庭用品を操るようなAIのことですね。そして二つめのレベルは、それは少し遠い未来のことですが、組織を運営するようなAIのことです。でもそんなAIが出現して、人間をまるごと追い払ってしまうようなことは、すぐには起きません。むしろ、お互いにコミュニケーションをとり、協調し、信頼に足る情報を持つという人間の能力を拡大するでしょう。
小野:自動運転の車が好例だと思うのですが、人間と機械の間でやるべきことを線引きするのはなかなか難しいと思います。その線引きはできるようになるでしょうか。
ヒダルゴ:その問題については、最近ガーディアン紙に載った、ティム・ハーフォードの書いた記事が的確なものでした。航空機事故の話で、そのパイロットはAIによる自動操縦を長年信頼しきっていたがゆえに、危険な事態に対応するすべを知らず、そのためにちょっとした機械のトラブルを深刻化させてしまって墜落事故を引き起こした、というのです。つまり、AIは多くの場合、信頼できる。しかしAIの大きな問題は、何か失敗した時に、事態をより破滅的にしてしまうことだ、と。なぜなら、難しい状況に対処する人間の能力をAIは奪ってしまっているからです。
小野:そのようなこともあるとすると、テクノロジーは本当に人間を幸せにするでしょうか。
ヒダルゴ:私はそもそもテクノロジーが人間を幸せにするとは思っていません。人間を幸せにできるのは人間で、そのことの助けとしてテクノロジーを使うだけです。
いい例があります。私の3歳の娘をVRで撮影して、88歳の祖父に見せます。彼は幸せですね。でも、彼を幸せにしているのはVRでしょうか、それとも娘でしょうか。答えは明らかですね。だから、テクノロジーがあなたを幸せにしてくれると思っているとしたら、それは進化というものに対する大きな誤解なのです。