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【続】ろーかる・ぐるぐるNo.154

学びの「メタ認知」

2019/04/11

今年も明治学院の経営学特講「イノベーションとクリエイティビティ」がスタートしました。早いもので、もう8年目。うれしいことに過去の履修者も教室へ顔を出してくれたり、ご飯に一緒に行ったり、交流が続いています。

先日も一昨年の受講生仲間が集まってワイワイ。大学4年生の山崎さんが出演した映画「夢の音」の話はもちろんですが、社会人も学生も、みんな生き生きとしているのがうれしく、また大いに刺激も受けました。

肴

ところで最近は、大学側から「シラバス」(各授業科目の詳細な授業計画)を丁寧に書くことが求められます。そして今年配られた「執筆ガイド」はその意図を分かりやすく説明していました。

ガイド


明治学院大学は「キリスト教による人格教育」という建学の精神と、“Do for Others”という教育理念に照らして「1.他者を理解する力 2.分析力と構想力 3.コミュニケーション力 4.キャリアをデザインする力 5.共生社会の担い手となる力」を身につけることを「教育目標」に掲げています。さらにぼくの担当科目は「統合的な学習経験と創造的思考力」を中心とした四つの能力が身に付くことを求められています。

シラバス
シラバスの「身につく能力」

「シラバス」においては、その講座がどうやって能力向上に結び付き、なぜ「目標」到達に役立つのかを、きちんと説明しなければなりません。授業の一回一回という「手段」が、教育目標という「目的」のもとで明確に整理されるのです。

少なくとも30年前の大学は、ここまで丁寧ではなかった気がします。「分かる奴にだけ、分かればいい」という時代だったのでしょう。たくさんの講義を担当する先生方のご負担は計り知れませんが、少なくとも学生さんにとって、詳細な授業計画とその目的が示されることはとても価値があります。

もうひとつ、最近の傾向にあるのは「アクティブ・ラーニング」、つまり「一方的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習」の推奨です。

授業を聴いて分かっているつもりになっている学生に、授業で習ったことを話させたり書かせたりして「どこが分からないか」を分からせなさい(=学びの「メタ認知」)、ということだそうです。

う~む、これはなかなか難しいことだよなぁ。

ぼくは大学での授業を持つようになってから一貫して「双方向の講義」を心がけています。時には100名を超える履修者の顔と名前を憶え、機会があれば一緒にご飯を食べに行き、発言もせずに出席するだけでは単位取得できないような評価基準を設け、その他あらゆる手段を駆使して「能動的な参加」を促しています。

しかし現実には学生さんと「分かっていない状態にいることが、分かる」ことまでは共有できても、なかなか「どこが分からないか、分かる」境地にまでは導けません。

そりゃ、そうです。医学博士の山鳥重さんも「わかる、という心理的体験のもっとも重要なところはここです。ただ、わかるということはなく、何かがわかるのです。わかるためには『わからない何か』がなくてはなりません。『わからない何か』が自分の中に立ち現われるからこそ、『わかろう』とする心の働きも生まれるのです」(「『わかる』とはどういうことか―認識の脳科学」ちくま新書)とおっしゃっています。

「どこが分からないか、分かる」ことは、「分かる」ために本質的に必要なこと。つまり、あらゆる教育が究極的に目指す一歩です。双方向のやりとりも有効でしょうが、大教室の「一方的な知識伝達型講義」でだって実現できない話では、ないハズです。

校舎
明治学院校舎

大学の講義であっても、コンサルティングの現場であっても、ぼくの心の中にある「イメージ」を相手に伝え、納得してもらい、自ら行動できるように導くプロセスは、いつでも難しいものです。

ひとつ間違いないことは、その経験を通じて、他ならぬぼく自身が「学びのメタ認知」をしていること。分かったつもりで話していても、分かっていなかったポイントが明らかになること、しばしばです。
今年も、お互いにとって良い学び合いの場になりますように。

どうぞ、召し上がれ!