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高崎卓馬のクリエイティブ・クリニック特別編No.2

クリエーティブの体幹を鍛える「言語化」

2019/04/15

<目次>
「自分に無関係な情報」の大切さ
今までの広告の延長上で考えていないか?
時代の変化を自分なりに「言語化」しよう


「自分に無関係な情報」の大切さ

先日、西日本新聞にこんな原稿を書かせてもらった。


自分に無関係な情報こそ大切
 
広告の表現は世の中の変化にとても敏感で最近は「マス」離れが加速している。データを中心に、いわゆるターゲティングという人の動線にあわせその人にフィットする広告をダイレクトに届けるという手法が目立つようになった。当然効率がいいからクライアントからも好まれる。この手法は広告だけでなくあらゆる「情報」に運用されている。
 
人は欲しい情報だけをもらえるようになって「便利」になったと言われている。果たして本当にそうだろうか。便利になったのは発信者だけはないか。
 
自分と無関係な情報は、果たして不要なものなのだろうか。かつてテレビがリビングの王様だったとき、化粧品のCMで美しさの変化を知り、飲めないウイスキーのCMに人生の悲哀を舐める中年の背中の意味を知ることができた。強制的にCMを見させられるテレビは「他人の価値観」を知るひとつの装置だったのは確かだ。
 
同じ価値観を持つひとたちの集合を私たちはコミュニティーと呼んで、そこへ向けてのコミュニケーションを発達させている。そこにはひとつの強い価値観があるゆえ深い関係がつくりやすい。だが、それ以外のものを排除する傾向も生まれる。いわゆるムラ化して中にいるとそのコミュニティーが世界のすべてに見えてしまうのだ。情報の効率をあげる仕組みは、実は私たちの生活から自分とは違う価値観をもつひとたち、つまり「他人」の存在を一気に遠ざけてしまっているとも言える。
 
他者を知ること。他者の価値観を知ること。それは想像力を養う。想像力は優しさの起点だ。テレビやマスメディアの弱体化は、私たちが無自覚にその肌で感じ、他者との関係のなかで自分の場所を感知できていた何か大切なものを奪ってしまっているのかもしれない。広告は時代の鏡と言われる。コミュニティー化して他者へのイマジネーションが小さくなった、つまり優しさを身につけるために努力が必要な、そんな時代なのかもしれない。
 
テクノロジーは加速度的に進化し環境を劇的に変える。進化の先端で時代を謳歌することは楽しい。だが、何かを獲得するときひとは必ず何かを喪失してもいる。そのことを忘れずにいたい。自分ではない誰かの生活をきちんとイメージできる人間でいたい。
(2018年12月23日 西日本新聞掲載)

原稿が世の中に出たあと、いつもの喫茶店で、愛すべき生意気な後輩トミタくん(仮名)が申し訳なさそうに言った。

「髙崎さんのコラム、すごい“いいね!”が集まってますね」

なんかトゲのある言い方だ。どうもトミタくんは“いいね!”とは思っていないようだ。

「なんか不服?」

「“いいね!”してるひとたち、おじさんばっかだなと思って」

がーん。たしかにそうかもしれない。とくに反応がよかったのはFacebookにリンクを貼ったときだった。

「トミタくんは違う意見なの?」

「違うとは思わないですけど、もうそろそろ変わる変わらないみたいな話はいいかなって」

がーん。たしかにそうかもしれない。若い世代は「デジタルの台頭、そしてそれによって失った何か」なんて話はいいから未来の話をしようぜ、的な受け取り方をするのかもしれない。

「なんか古いっていうか」

あ!トミタくん、このあいだ僕が教えた武器(前回コラム参照)をさっそく使ってきた。ただこの攻撃は、僕の企画に向けられたものではなく考え方に向けたものだからそう痛くはないぞ。

なぜなら考え方はいくらでもアップデートできる。右脳の劣化はいかんともしがたいが、左脳のそれはいくらでもカバーできるのだ。むしろ左脳は経験の数だけ能力アップするものだから、こういう出来事をできる限り言語化して、自分のものにしてしまえばいい。

確かに、もうそろそろ変わる変わらない議論はやめたほうがいいかもしれない。そんな意見を言うくらいなら偶発性を意識したアウトプットを具体的につくるべきなのだ。意見よりもアウトプットのほうがよほど雄弁だし、価値がある。ああ僕はいつのまにかご意見を発信しているだけのおじさんになっていたのか。

今までの広告の延長上で考えていないか?

「でもこのコミュニティーって考え方はいいと思います」

やばい。完全にトミタくんにマウントされている。

「非マスの企画考えたんですけどちょっと見てもらえます?」

ふと、トミタくんが最近連発する非マスという言葉がなんだか気になった。

「トミタくん、マス、非マス、って言ってるけどさ。そう言ってる時点でなんかマス軸でしかものを考えてない感じがするんだけど」

「? どういうことですか?」

頭の?の間がちょっと怖い。反抗期の息子のようだ。

「マスの代替を、非マスでやるって考え方がもう古いのかもよ」

思い切ってそれ古くないですか返しをしてみた。

「うぐぐ」

トミタくんが、うぐぐと声を活字にして唸る。

「髙崎さん、たしかにその通りです。ぐうの音も出ません。僕はテレビCMでやれていたことを他の手段でカバーするなら、と考えてました。でもそれって確かに古いですよね。せっかくクリエーティブがメディアから解放されたのに」

いつになくトミタくんに反省の色が見えて僕はとても愉快な気持ちになったけれど、今度はトミタくんが言う「クリエーティブがメディアから解放された」という言葉がとても気になった。

メディアから解放される、というのは言葉が大げさすぎる。表現の場がない限り僕たちは暴れることなどできない。だが、テレビという枠から解放されたらCMはどうなるのだろう。今の動画広告たちが、枠から解放された表現になっているとはまだ思えない。

例えばそれは「オンエア」という時間の制限から解放された表現を僕たちにもたらすかもしれない。10年20年使う素材を最初から予定してつくるようになるかもしれない。そんな視点が映像のありようを変えるかもしれない。現にYouTubeで昔のCMをアーカイブして今のコンテンツとして楽しんでいるひともいる。

長く民族性に合わないとされてきた比較広告が新しいエンターテインメントとして登場するかもしれない。A社とB社がプロレス的にやりあう企画が年末の楽しみになったりして。

とにかく今までの延長線でしかものを考えていないと大きなチャンスを逃してしまいそうだ。まったく違う分野からやってきたまったく違う映像のつくり手が時代を一新してしまう予感がする。

みんなに観てもらう快感と、それに対する敬意で、僕の作法はできている。「みんな」というもの自体がなくなりつつある今、僕の感覚そのものが時代遅れになっていく危険がある。もう一度最初からやり直し、だな。

時代の変化を自分なりに「言語化」しよう

「フムフム」

トミタくんが僕が口走ったことをノートに書き留めた。

フムフムノート

「高崎さんってすぐ言葉にしますよね」

「言語化って言ってくれる?」

「企画のときもよく考えながらしゃべりますよね」

「だから言語化してるんだよ」

「ゲンゴカですね」

トミタくんが言うとなんだか悪癖のように聞こえるけれど、実際この「言語化」はとても大切な行為だと思っている。世の中の変化、メディアの変化を自分なりの言葉にしておく。なぜその表現が当たっているのか、なぜこれが当たらないのか。すごくうまくいった手法には〇〇法みたいに呼称をつけたりすると急に技のひとつになったりもする。

フムフムノート

くどいようだが、右脳の劣化はいかんともしがたいもので、その人なりのやり方で「心の筋肉」を鍛え柔らかさを保つしかない。しかし、左脳はいくらでも鍛えられる。そして企画の大半は左脳を使って構築、ブラッシュアップができる。それをやりきったところで右脳がジャンプするのを待てばいいのだ。

言語化とはクリエーティブの体幹トレーニングのようなものだ。企画はなまものだ。時代を言語化して理解しておかないとズレたものになる。

先日、「ドラゴンクエスト」の生みの親・堀井雄二さんにお会いして映画化のコピーの話をしたときに、僕の書いたコピーのなかの「勇者」という単語を指差して「今この言葉は重いかもしれませんよ」とおっしゃったその感覚のあまりの鋭さにただただ驚いた。

言われれば僕もわかる。でもそれを最初に感じとるその感性は天才にのみ与えられたものかもしれない。ドラクエだからと安易に勇者という単語を使った自分を恥じた。感じる才能が弱いぶん、左脳を使って右脳をフォローしていくしかないのだろう。

「このあいだの本に載ってる仲畑さんとの対談でも似た話ありましたね」

「そうだね。愛とか勇気とかの話のところでね。ああいう感覚はまだ身についてないなあ。それは僕の課題だなあ」

トミタくんがニヤリとした。

「あと、高崎さんのこれからの課題は後輩の育成ですね」

トミタくん…。もはや僕は君のことが好きかもしれない。

面白くならない企画はひとつもない 髙崎卓馬のクリエイティブ・クリニック
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