アート×ビジネスの妄想夜会No.3
アート思考から生まれる未来とは?(長谷川愛×ドミニク・チェン)
2021/06/28
2020年12月7日から五夜連続で「アートとビジネスがつくる未来を妄想する夜」と題するウェビナーが「アートとビジネスをつなぎ、豊かな未来を描く」をテーマとした電通社内ラボ、Dentsu Art Hubの主催により開催された。アート×ビジネスにそれぞれの立場で深く関わる猛者たちによる対談&鼎談は、いずれの回も「三つのキーワード」のもとで行われた。ご本人により事前に設定された「妄想トーク」のテーマは、それだけで聴く側の妄想が掻き立てられる。
この連載では、ウェビナーを通じて見えてきたアートの本質、ビジネスの本質、さらにはそのアートとビジネスが「掛け算」されることで創造される未来という大きなテーマに、編集部ならではの視点から切り込んでみたい。
第二夜にあたる本稿では、アーティストでありデザイナーである長谷川愛氏と研究者 ドミニク・チェン氏の対談内容から、アートの思考がもたらす未来について掘り下げていく。
文責:ウェブ電通報編集部
「もしも4億年前の石炭紀に能楽があったとしたら、一体どのような演目になるのだろう?」(長谷川愛)
その発想の源は、一体どこにあるのだろうか。本稿を読み進めていただくことで、徐々に明らかになっていくと思う。今宵もまた、「妄想夜会」というタイトルに相応しい対談となった。
長谷川氏の専門は「スペキュラティブ(思索)デザイン」というもの。通常デザインは問題解決、アートは問いを発するものと考えられているが、問題提起や議論などのための従来考えられていたデザインに対して、オルタナティブな価値観や態度のデザインだという。このスペキュラティブデザインには、「〇〇デザイン」といったようなメソッド(方法)はないらしい。例えば「アート思考」などと言われると、ともすれば私たちは「社会が抱える問題を、瞬時に解決してくれる魔法のようなメソッド」であるかのように思いがちだが、そういうことではない、というのだ。
見出しで紹介した疑問の他にも、長谷川氏はこんなことを考える。「どれだけ言葉を尽くしても、行動に訴えても、人と分かり合えない時がある。いっそ人間から遠いサメとコミュニケーションしてみるとどうなるのだろう?」そんな思いから長谷川氏はサメを誘惑する香水を作った。「デザインに対する一つの態度」ということの正体が、徐々に分かってくる。同じようなことが、対談相手のドミニク氏の発言にも見てとれる。
「実は今、ぬか床との会話を楽しんでるんですよ」(ドミニク・チェン)
こちらも「妄想夜会」というタイトルに相応しいエピソードである。ドミニク氏も長谷川氏と同様に、コミュニケーションの可能性が未知のものと繋がろうとしている。「ぬか床との会話」というのは、ぬか床の状態を人の言葉に翻訳してくれるロボットを通じて、ぬか床の気持ちを知るという試みのことだ。
ドミニク氏の研究者としての専門領域はデジタルツールを用いたコミュニケーションで、とりわけ、「翻訳」ということにかける情熱は、並ならぬものだ。分かりやすい事例を挙げるならば、ドミニク氏がGoogle Creative LabとStudio The Green Eylと手掛けた二十数カ国の言語を同時通訳するインスタレーション作品「Found in Translation」。これなどは「翻訳」という行為そのものが「表現」となりうることを実証してみせた好例だ。
「翻訳」の対象は、なにも外国語にとどまらない。過去の人間と、あるいは、未来の人間と、時空を超えてコミュニケーションをする。相手がぬか床に住みつく微生物であろうと、石ころであろうと、「翻訳」を試みることによって心躍る発見が必ずある。そう、ドミニク氏は言うのだ。
今宵のキーワード (その1)家族の境界
いよいよ今宵の妄想夜会が始まった。一つ目から、不思議なテーマだ。これは、将来父と母という2人の親からではなく、3、4、5人などの多数の遺伝的親を持つ子供をつくれる技術が開発されたら?ということを考えるための長谷川氏のShared Baby というプロジェクトでワークショップをした時のエピソードだ。
テクノロジーの力で生まれた「複数の親をもつ子供の家族」に、どのような問題や喜びが待っているのか考えるために、長谷川氏、ドミニク氏、友人2人の計4人で2人の子供を作ったという前提でのシミュレーション的即興劇を3時間演じたのだという。家族に起こりうるハッピーイベントやトラブルを、各々数枚のカードに記入し、シャッフル。子供が成人するまで、カードの山から一枚ずつ引いては演じ、引いては演じることで、20年にわたる家族の歴史を作り上げた。
「あれは、静かな衝撃というか、ワークショップが終わってからというもの、なにかモヤモヤした感情が2カ月もの間、じわじわと続くという不思議な経験でした」そう振り返るドミニク氏。長谷川氏によると、4人の間に生まれた子どもの親権を四分割してみたら、なにが起こるのだろう? その子どもの名前は、だれがどうやって決めるのだろう?といった不思議な実験を、淡々と続けた3時間だったのだという。
興味深いのは、「子供共有契約書」といった架空の法文書までわざわざ作成しているという点だ。「恥ずかしいので、今まで内緒にしていたのですが、ドミニクさんのリアルな娘さんのことが、わが子のように思えてきたりするんです。そう考えると、家族であるかないかの境界って、果たしてどこにあるんだろう?という妄想が妄想を呼んで、不思議な発見があったりするんですよね」
そう語る長谷川氏に「それこそがまさに『ごっこ遊び』の強さだと思う」と答えるドミニク氏。リアルな世界で「家族の関係性」が弱まり、あるいは歪みはじめていることを考えると、ある意味『ごっこ』の方が現実よりもはるかに深いし、さまざまな発見も期待できる、という意味だ。
今宵のキーワード(その2)more-than-human(人以外の生命種)
「話が少し飛ぶんですが」二つ目のキーワードが示されるやいなや、長谷川氏はこんなことを語り出した。「能楽の人と新作をつくるにあたって能の勉強をしているのですが、能には神様に奉納する演目があるらしく、それって神様が観客ってことなんだな、と。だとするならば、4億年前の世界に能楽があったならば、そこでは一体、どんな演目になりうるのだろうか。4億年前の世界に私たちがいたら、どんな神様を見出していたのか」。それが、本稿最初の見出しで紹介した長谷川氏の疑問だ。
そんな長谷川氏の疑問に、能楽師に個人的に稽古をつけてもらっているというドミニク氏が答える。「能には、ツチグモとか、亡霊とか、鬼とか、酒呑童子といったmore-than-humanな存在がたくさん登場するんです。おもしろいのは、彼らと旅の僧侶との会話が、結構な割合で破綻しているということ。あなたは誰ですか?という問いに一切答えない、みたいな。でも最後には、いわゆる共話(きょうわ)が成立する。これは、すごく面白いしインスパイリング。人が頭で決めた方法以外の手段で、人以外の何者かと通じ合えているわけですから」
「脱人間中心主義」というくくりでは、動物を擬人化することの是非といったものにも長谷川氏は関心を寄せる。たとえばパンダに言葉をしゃべらせることが妄想であるかのように思われているが、それは大きな間違いで、パンダに人の言葉をしゃべらせている時点で、人間中心の考え方にガチガチに縛られている、というわけだ。そうした呪縛から自身を自由に解き放ってくれるものが、長谷川氏にとってのアートの意義なのだという。
ドミニク氏の「しゃべるぬか床」も、しゃべらせることに意味があるのではない。神経系を持たない微生物と心を通わせようとするプロセスから、見えないものが見えてくるのだ、とドミニク氏は言う。「たとえば、ぬか床型の社会とか、ぬか床型の家族とかあったとしたら。そんなふうに考えてみると、人間社会を別の見方で捉えられるような、不思議な感覚が呼び起こされるんです」。その先に、人間を自由にしてくれる宝が見つかりそうな、心踊る妄想だ。
今宵のキーワード(その3)テックヒッピー
今宵のお題目も、あと一つとなった。長谷川氏から出てきた最後のキーワードは、「テックヒッピー」。「このワードは、ドミニクさんから私にリクエストいただいたもので、本当はノマディックテックヒッピーと言いたかったのだけれど、やや長いので、テックヒッピーにしました」と言う長谷川氏。話はどうやらノマド(遊牧民)に飛ぶようだ。「ヒッピーマインドで一番重要なのは、コミュニティーをつくりながらも、移動する、移動し続ける、ということなんです」
戦後の混乱期に一世を風靡したヒッピー。やがてそれは、ヤッピー化のような形骸化のプロセスを経て、デジタルテクノロジーの潮流へとつながっていく。そこに流れているのは、反体制という思想や行動規範。ところが、デジタルテクノロジーやSNSの作り出す世界が体制を凌駕するようになってくると、ヒッピー的な思想の骨の部分が空洞化していくことになる。なぜなら反抗しようにも、その相手である体制が脆弱なものになっているわけだから。「コロナのようなパンデミックや気象変動による自然災害などと共にこれからを生きていく上で、ヒッピー的な思想とテクノロジーを、今、このタイミングで再結合させる必要が、あるのではないでしょうか」。ドミニク氏が妄想する未来は、あくまで冷静かつ緻密な分析の先にある。
対談の最後に、「所有」という概念に対する、お二人の意見交換が行われた。ドミニク氏はいう。「ノマドの人々と生活を共にしたことがあるんですが、一番衝撃的だったのは、彼らの所有という概念が極めて異質で、観光客にもびっくりするくらいたくさんのものをシェアしてくれるということ。彼らと接していると、ここは俺の土地だといったように、所有権を主張すること自体がなんだか小さいことのように思えてくる」。テクノロジーの進化によって、ようやく私たちの社会も「シェア」という概念を意識するようになった。しかしながら、彼らは遥か以前からそのことの重要性に気付いていた、ということだ。
長谷川氏もまた、権利ということに対する「脱人間的で自由な視点」を持っている。「たとえば、死者にも投票権を持たせようとか、これから生まれてくる未来人のために今を生きる権利が与えられているのだとか、川にも人格を持たせよう、といったような動きが世界では起きていたりしますよね。法の整備からなにから、今を生きる人間中心に考えざるを得ないことへのある種の贖罪の気持ちがそうさせるのかもしれませんが、一言で言うなら『人間だけの力では、この世界はもはや背負いきれない』ということなんだと思います」
長谷川氏の作品は、こちら。
長谷川氏によるワークショップ「SHARED BABY」の詳細は、こちら。
ドミニク氏による「Found in Translation」の映像は、こちら。