十人十色の思考のお伴No.3
──長久允さんって、不器用なんですか?
2023/12/14
2023年10月。ウェブ電通報は、開始から10年の節目を迎えた。ここはぜひとも、10周年にちなんだ「連載モノ」を編んでみたい。たどり着いたのが、「10」人「10」色というテーマのもとで、すてきなコンテンツを提供できないだろうか、というものだった。大きく出るなら、ダイバーシティ(多様性)といえるだろうか。
思考に耽(ふけ)りたいとき、アイデアをひねり出そうとするとき、ひとには、そのひとならではの「お伴」(=なくてはならないアイテム)が必要だ。名探偵シャーロック・ホームズの場合でいうなら、愛用の「パイプ」と「バイオリン」ということになるだろうか。
この連載は、そうした「私だけの、思考のお伴」をさまざまな方にご紹介いただくものだ。あのひとの“意外な素顔”を楽しみつつ、「思考することへの思考」を巡らせていただけたら、と願っている。
(ウェブ電通報 編集部)
第3回のゲストは、長久允(ながひさまこと)氏(電通コンテンツビジネス・デザイン・センター)
──長久さんといえば、電通の社員でありながら「そうして私たちはプールに金魚を、」(2017年サンダンス国際映画祭で日本人初となるショートフィルム部門グランプリを受賞)や、「WE ARE LITTLE ZOMBIES」(2019年発表の初長編作品)などを手がけた映画監督として、業界の、いや、世界の注目を集めておられます。
長久:ありがとうございます。
──まず、伺いたいのは「ところで、2020年以降は、何をされていらっしゃるのですか?」ということ。というのも、映画って、とにかく「長い!」じゃないですか。尺(上映時間のこと)も長いし、準備期間も、制作期間も長い。その分、長く人に楽しまれるわけですが、いわゆる会社員としての成果をあげるとか、会社にその成果を認めてもらうといったことをするには、長すぎると思うんです。
長久:おっしゃる通りです。でも、こう見えて、映画以外でもいろいろとやってるんです。三島由紀夫没後50周年記念の舞台では「(死なない)憂国」の脚本・演出を手がけましたし、WOWOWの連続ドラマ(柳楽優弥が幽霊役に挑む「オレは死んじまったゼ!」、宮沢りえなどが出演・歌唱した「FM999」)やミュージックビデオなども作っています。広告もお誘いいただいて、グッチのCM(カンヌ ライオンズ広告祭でブロンズ、スパイクスアジアでグランプリを受賞)なども作りました。
──手広い!そんなに色々なものを手掛けられるって、長久さんは器用な方なんですね。
長久:いや、僕はむしろ自分のことを「不器用な人間」だと思っています。それは、広告会社で働く人間として、ということですが。作るコンテンツの媒体に対しては柔軟ではあるのですが、内容に関してはなんでも作れる器用さはないです。自分が伝えたいこととのズレがどうにも許容できない不器用さを強く感じます。
──カンヌはじめ、海外で賞を取るというのは凄いことです。外からみていると、とても不器用とは思えません。
長久:いえいえ。でもとにかく作らないと評価の対象にもならないので、作り続けています。ものづくりにおいて大事なのは、手数だと思うんです。アイデアの引き出しの多さ、といってもいいです。コンテンツ作りは資金を出資するスポンサーがないと成立できません。僕がオモシロいな、作りたいな、と思うことが必ずしもクライアント、視聴者が求めているものではありませんから。手数が多ければ、じゃあ、こんな企画は?という提案ができる。
──その手数というものは、どこから湧いてくるのでしょう?
長久:駆け出しのCMプランナーの頃は、異様な量の企画を殴り書いていました。広告がメインだった頃は自分の伝えたいメッセージと、商品が伝えるべきこととの差異に苦しみました。うだつの上がらない社員だったと思います。でも、すごい量を考える癖はその時についたと思って感謝しています。もっとも、当時、面白いと思っていた企画はほとんど実現していませんが。
──なるほど、そこが長久さんの言う不器用なところ、なんですね。
長久:そうなんです。自分の不器用さが分かっているから、とにかく殴り書く。それも、文字を。それは今も同じで、たとえば90分の映画を作ろう、と思ったら、言葉を読み上げるだけで90分かかってしまう、という分量の文字を、ひたすら書くんです。
──それは意外ですね。出来上がった作品を見ると、「映像や音のアイデアが山ほど降りてくるのだろうな」と思っていました。
長久:不器用な上、誤解されやすい人間なんです(笑)。ただただ文字をひたすら書いて作っている感じです。人と会うのも、人に合わせるのも苦手だし。
──それも意外です。お話していると、そんなふうには感じませんが……。
長久:そんな人間が、どういうわけか、電通という会社で映像を作る仕事をしている。さて、こんな僕に何ができるのだろう?いやいや、何が、ではなく「何か」をしなければならない!という使命感のようなものに突き動かされている感じ、ですかね。
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「思考のお伴」その原点は、シュールレアリスム(長久允)
──具体的な「思考のお伴」の話を伺う前に、そんな長久さんにとって「思考のお伴」というものがあるとするなら、それは一体、どのようなものですか?
長久:「使命感」という話をさせてもらいましたが、それはサラリーマンとしてやるべき仕事をする、というだけではないんです。世の中には、というか、人の気持ちには「もどかしさ」とか「やるせなさ」とか「むなしさ」といった、言葉にならないモヤモヤした気持ちってあるじゃないですか。その気持ちをなんとか掬 (すく)ってあげたいという「使命感」がモノを考えるときに大事かな、と。「すくう」というと、なんだか上から目線で偉そうに聞こえますが、「救う」ではなくて、水をすくう、というときの「掬う」の意味合いです。
──「手を差し伸べる」とか、そこにある気持ちを「拾い上げる」みたいな感覚ですね。
長久:何より「掬ってあげたい」のは、過去の自分の気持ちなんです。いじめられて、うだつがあがらなくて、でも、何もできなかった過去の自分。で、過去の自分を救うために、この場合は「save」の方ですが、ひたすら文章を書きなぐる。
──言葉にならない気持ちを、言葉にする。なんだか、哲学的というか文学的ですね。
長久:おっしゃる通りです。ぼくは大学で、フランス文学を専攻していたんですが、あるんですね、そういうジャンルが、フランス文学には。「シュールレアリスム」というんですが、「シュール」というよくいわれる意味合いとは違って、ロジカルに感覚追求をする学問だと思っています。たとえば、あいうえおの「あ」と英語の「Z」を組み合わせると、通常では立ち上がるはずのない情景が浮かんでくる、といったような。もっと飛躍して、濁点の「゛」と南極にいるペンギンの眼球を足すと、何が立ち上がるのか?などを検証していくような。ロジカル思考では生み出せない何かに対してロジカルに迫ろう、という……。
──長久流の「デザイン思考」、みたいなことでしょうか。その「何か」に出会うために、ひたすら文字を書きまくる、と。
長久:そう、自動筆記みたいな。ほとんど、イタコ状態ですよ(笑)。それが作品になってみると、唐突に挿入されるソフトクリームの先っぽだったり、砕け散るグラスだったり、になっていたりする。通常よりも、もうちょっと現実に寄せたシュールレアリスムの検証をしている感じです。
──だんだん、分かってきました。長久作品のヒミツも、「思考のお伴」の正体も。その答えは、ずばり、ペンですね!
長久:確かにペンはそうかもしれません。あ、PCですね。ペンは使わないので。でも、本質的なお伴は、それとは別にあるんです。
長久允氏の「思考のお伴」とは?
──では、いよいよ本題の長久さんにとっての具体的な「思考のお伴」(ペンではなかった……)について教えてください。
長久:それは、ですね。「怒り」です。
──「怒り」?
長久:たとえば、それを引き出すために日々のニュースや、日常での出来事に敏感でいることを心がけています。渋谷の雑踏とか。ハンバーガー屋さんの店内とか。コンビニのイートインコーナーとか。学生の頃からなじみのある、あの「喧噪(けんそう)」の中に身を置いて、イヤホンをするけど音楽は流さずにたたずんだり、歩き回ったりします。そうしていると、昔の自分が抱いていた言葉にならない気持ちが、泉のように湧き出してくる。あるいは、洪水のようにあふれ出します。はた目から見ると変質者に見えているかもしれませんね(笑)。
──過去の自分との、いや、過去の自分の気持ちとの「邂逅(かいこう)」……それは、誰にもマネできないですね。
長久:雑踏の中にいると、過去の自分が持っていた「怒りの感情」がよみがえってくる。それが、思考にとってのエンジンになるし、アウトプットの、これは言葉に限りませんが、リズムになる。
──すごく、よく分かります。マネしろ、と言われてもできないけれど。渋谷の雑踏でいうと、行き交うひとたちの息づかいや車や電車の音が、不協和音のように襲ってくる、みたいな。でも、ふつう、人が思考を巡らすときって、静かな環境で心を穏やかにするイメージですよね?沈思黙考(ちんしもっこう)というような。
長久:穏やかな気持ちになるっていうのは、感情をリセットするとか、自身の感情をなぐさめてあげる、ということですよね。たとえば、二人いる娘となにげない会話をするとか。それはそれで大切なことだけど、「怒り」の感情は湧いてこないので。
──満たされてしまう、という感じでしょうか。
長久:穏やかだと何も作る必要がなく感じてしまうんですね。でも社会は未発達だから、ちゃんと「怒り」を持ってメッセージを投げかけ続ける必要を感じていて、それが僕の制作の根源になっています。表裏一体ではあるのですが、怒りの感情って、社会的に、あるいは組織の中で、でもいいですけど、虐げられている人がいつか爆発させたいと思っている本心に耳を澄ますということで、それは、マイノリティの人たちの心にやさしく寄り添って、同化するということと同義だと思うんです。これが先ほど言っていた、行き場のない気持ちを掬いとる、ということにつながっています。
──なるほど。長久さんの作品って、一見、ぶっ飛んでいるけど、どこかに「やさしい気持ち」が感じられるもの。だから、世代や性別、国すらも超えた共感が生まれる。「こんな私の気持ちを掬ってくれた、こんな私のことを肯定してくれた」という気持ちになれる、というか。
長久:そう言っていただけると、うれしいです。
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