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DENTSU DESIRE DESIGNが考える、「欲望理論」からのマーケティング再構築No.14

タガが外れた日本人(後編)~社会が迎える新たな転換期~

2024/04/15

本連載では、電通の新たな消費者研究プロジェクト「DENTSU DESIRE DESIGN(電通デザイアデザイン:以下DDD)」メンバーが、「欲望」を起点とした消費者インサイトやアプローチ方法などについて紹介していきます。

前編では、日本人のイメージとされてきた「時間に正確」「勤勉」「仕事が丁寧」「礼儀正しい」「親切」などを覆すような出来事が増えてきた状況。そこから生活者の“タガが外れた”のではないかと考察するにいたった概要と、「“底上げされたリアル”で、タガが外れる」「“行き場を失ったやる気”で、タガが外れる」の2つの具体例についてお伝えしました。

後編となる今回は、さらに2つの例に加え、タガが外れはじめた日本がこの先どうなっていくのか、DDDの調査と併せて考察します。

<目次>

「正義の名」の下に、タガが外れる

“勝てないゲーム”に、タガが外れる

もはや日本人の半分以上は、タガが外れそう

タガが外れた、その先へ

 

「正義の名」の下に、タガが外れる

この十数年で「正しさ」の基準が大きく変化したと感じる人は多いはずです。コンプライアンス、ジェンダーなど、新しい物差しにすぐには対応できない人も決して少なくはないでしょう。

頭ではわかっていても、長い時間をかけて体に染みついた価値観は、まさに時代が自分に埋め込んだプロトコルとして機能してしまうので、ふとした瞬間にそれが自動的に作動して表に出てきてしまうのはよくあること。そのたびに、「変わらなくちゃ」と強く思っている人ほど、「またやってしまった」と自己嫌悪に陥ることになります。価値観は、機械のOSをアップデートするように簡単にバージョンアップできないものなのです。

そもそも人はどうして新しい価値観に追いつこうとするのでしょうか?「私は古いタイプの人間なんです!」というような開き直りも、頑固者などと呼ばれつつも昔はそれなりに居場所があったようにも思います。ゴーイングマイウェイ。協調よりも自分の道を貫く、という考え方にも一定の理解があり、時には尊敬のまなざしが向けられることもあったかもしれません。

おそらくここでポイントとなるのは「他者の人権」です。昨今、大きく基準が変わった価値観のほとんどには、人間関係が発生しています。ハラスメントしかり、ジェンダーしかり、自分の権利だけではなく、同時に誰かの権利の話で、そこに人間関係が含まれています。そして誰かの権利を守るという形で、新しい基準が生まれているのです。さらに具体的に言うなら、誰かの権利が侵害されていたら、もうそれを「許さない」ということです。

私たちが新しい価値観と呼んでいるものの多くは、実は昔からずっと社会に存在していたテーマです。単に目をそらしてきていただけなので、そこにはずっと「弱者」「被害者」「当事者」がいました。昨今では、彼らがこれ以上傷つくことのないように、もう今までのような言動は許さない、という社会全体の機運があります。本来「親切」なはずの日本人がそれでもなお見過ごしてきてしまった問題だからこそ、そこには強い反省があるのです。

しかし最初に述べたように、人の価値観はそう簡単に入れ替わることはないですし、何なら、自分でも良くないとわかっているのに瞬間的かつ無意識にその手の言動をしてしまうこともあります。ところが、社会はもうそれを許してはくれません。結果として、言動の一つ一つにおびえながら、慎重に生きることが必要となります。

このような不安な状況下では、二つの“気分”が蔓延することは容易に推測できます。一つは「常に正しい側に立っていたい」という感覚。もう一つは「勝手な振る舞いをする人を許せない」という感覚です。

時に自分もしでかしてしまうからこそ、日頃から積極的に誰かを批判することで「自分はちゃんとわかってますよ」という主張を積み重ね、いざという時に大きな批判にさらされることを防ぐ。そして、自分はこんなにも「礼儀正しい」日々を生きているのに、そんなことまるで気にしないかのように振る舞う存在を許容してしまったら、自身の努力がむなしくなってしまうので、そうした存在はしっかり「排除」しておく。これらの“気分”がネットでの広がりや匿名性と組み合わさったとき、タガが外れてしまう可能性が出てくるのです。

日常的に繰り返される過剰なまでのバッシング、問題視されている強引な私人逮捕など、「許さない」気分が行き過ぎてしまった事例は、今やそこかしこに見られます。ある種の世直し的な気分で、誰かを守るために誰かの権利を侵害してしまうような矛盾もあるように感じます。そしてこれらの行動は常に次の「許せない存在」を欲しがります。もともとが自身の不安を解消したいという行動でもあるので、誰かを「許さない」ことを続けていないと心配になってくるわけです。

迷惑系ユーチューバーなどと言われる存在は、まさにわざと誰かの「許せない存在」になることでビューを稼ぎビジネス化しています。彼らは炎上してナンボで、こうなってくるともはや当事者はそっちのけとすらいえます。

【気になる欲望】
→「炎上しないための」欲望
※DDDが分析した新たな「11の欲望」についてこちらを参照

 

“勝てないゲーム”に、タガが外れる

「失われた30年」などと呼ばれるようにもう何十年も低迷が続いている日本。これは、現在の30歳以下は全員一度も日本の経済がうまくいっている姿を見たことがない、ということを意味しています。

さらに苦しいことに、ここからいくら必死にもがいたとしても、常にそこには、人口構造の問題が立ちはだかってきます。少子高齢化によって2011年から始まった日本の人口減少は、2070年には9000万人を割り込み、その時、65歳以上が全体の約40%を占めていると予測されているのは皆さんもご存じの通りです。(国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口」/令和5年推計 )

人口が減っていけば、当然国内の需要はしぼんでいきます。特に生産や消費を支える64歳までの人口が減ることで、経済の活性は大きく下がり、冷え込むことになります。これからの日本を考えると、経済の前提条件があまりにも悪すぎるのが現実です。

このような状況下では、最初に持って生まれた条件が人生を大きく左右します。いわゆる「ガチャ」です。諦めず努力を重ねれば多くの人が報われる高度成長期と違い、あまりの地盤沈下に多少の努力は吸収されてしまうような世の中では、初期条件が大きくものを言うわけです。ちなみに、大企業への就職に有利と言われる高学歴も、結局実家の経済状況や親の学歴と比例することが多く、つまりは努力の中身以前に努力させてもらえる条件すらも「親ガチャ」次第と言われています。

低迷し続ける経済ですが、一方で、唯一堅調なのは株価です。つい最近も日経平均株価が最高値を更新しました。国も投資による自己資産形成を盛んに促しています。しかし、よく考えてみるまでもなく、投資にはまず元手が必要です。投資は必ず成功するものではないので、失敗したら致命的な資金を投資には回せません。

実は、この10年で日本の富裕層(純金融資産1億円以上保有)の数は倍増したというデータがあります。資産家や給与所得に余裕のある層が豊富な資金を元手に、自己資金を増やす。まさに富が富を生むわけです。しかしこの富裕層の数は全体の3%にも満たない本当にごく一部の選ばれた存在です。

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(2023野村総合研究所のデータをもとに電通が作成 https://www.nri.com/jp/news/newsrelease/lst/2023/cc/0301_1

自由な競争が存在するように見えても、勝てる人は最初からごく少数に制限されている。いや、そもそもゲームに参加できていない。「勤勉」で「仕事が丁寧」なのは、その先に何らかの希望があったからで、いくら頑張っても報われない社会では、今までの努力すら自己嫌悪の対象となりかねません。

DDD#14_図版08
(日本財団「18歳意識調査『第46回 –国や社会に対する意識(6カ国調査)–』報告書」より 
https://www.nippon-foundation.or.jp/app/uploads/2022/03/new_pr_20220323_03.pdf

長い間ずっとうまくいってないのだから、ルールが間違っていると考えるべきでは?いっそ一度、全部ご破算にしたら?みんなゼロに戻ってしまえば、そのほうがよほど公平なのでは?このような発想に行き着いた人は、論理的に、しかも自らの意思で、価値観や常識のタガを外します。いわゆる「無敵の人」と呼ばれる層の誕生です。

人はそう簡単に自暴自棄にはなりません。だからこそ、そうなってしまったのなら、そこにはとても強力な理由があったはずです。映画「ジョーカー」に描かれた悪に世界中の人々が「共感」してしまったことからもわかるように、確かに海外においても格差は広がっているわけですが、特に日本はもともとが経済大国かつ1億総中流という感覚の国だっただけに、格差の広がりや経済の長期低迷が想像以上に大きな心の傷となっている可能性もあります。

飲食店での迷惑行為をわざわざネットにアップする。なぜ、わざわざそんなことをするのか。冷静に考えてもそこに納得できる答えは見つかりません。一瞬の悪ふざけだったとしても、それをネットに公開したら自分にも相当なダメージがあることは容易に想像できるはずです。お店の評判を大きく毀損(きそん)して自分が職を失うこともわかるはずです。それでも、同じような事件はなくならない。「失うものなんてない」「全部終わってしまえばいい」という感覚が、生存本能のタガすら外すのかもしれません。

もはや日本人の半分以上は、タガが外れそう

ここまで幾つかの例を挙げてきたように、日本人の「タガが外れた」現象は、さまざまな形で社会に頻発しているように思えます。そしてそれを裏付けるような数字が私たちDDDの調査結果(調査概要はこちら)にも現れていました。

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※構成比(%)は小数点以下第2位で四捨五入しているため、合計しても必ずしも100%にならない場合があります。

日本人の2人に1人以上が「タガが外れそうになる瞬間」を感じていました。さらに10〜40代に絞ると、その割合は約60%にまで増えてくるのです。ある程度の高い数値は予想していたものの、ここまでとは思わなかった、というのが正直な感想です。

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そして、このような性年代を超えて日本人全体に広く発生している感情は、日本社会全体からの影響によって引き起こされたのではないか、と思えます。

「出口が見えないまま長期低迷し続ける日本経済」「大きく変化した価値観のアップデート対応」「SNSなどネット上におけるつながりと可視化」といった個人の力では争いようのない大きな圧力が、毎日の生活に常に存在していて、じんわりと追い詰められていった結果、もはや私たち日本人には余裕がなくなってしまったのではないか、と。

そしてそれをさらにはっきりと自覚させてしまったのが、コロナ禍という体験だったようにも思います。もともとコップのふち近くまで水が入っていたところに、突然やってきた世界的な規模での社会的負荷。その力の前に個々人の日々の暮らしは大きく変貌せざるを得ず、結果として、社会的負荷の影響の大きさを強く実感してしまいました。

近年の度重なる巨大自然災害の猛威も、影響していたかもしれません。「いくら積み重ねても、大きな力の前には一瞬で崩れてしまう」という体験が繰り返され、それが広く共有されることで、日々の努力を大切に感じることができなくなったり、今まで大事にしていた倫理観や常識が見えなくなってしまい、もう自分さえ良ければそれでいい(時には自分さえもどうでもいい)といった考えが頭をよぎり始めたようにも思えます。

私たちは、基本的に、自分の人生をより良いものに、より豊かなものにしようと努めて過ごしますが、社会から発生する負荷があまりにも大きくなってしまったことで、日々のささやかな積み重ねがそこに飲み込まれ、埋没して無価値化されてしまい、その結果の諦観として日本人の「タガが外れた」のだとしたら、一体この先日本人はどうなっていくのでしょうか。

タガが外れた、その先へ

タガが外れた日本人。タガが外れそうな日本人。そしてタガが外れた人を見てしまった日本人。いずれにしても、それぞれの立場で日本社会の余裕のなさをうっすら実感し、ついに「タガが外れてしまった」と少なからず危機感を覚えたはずです。なぜなら「タガが外れた日本人」の姿は、本来自分たちがそうありたいと思い描いた理想ではないからです(前編より)。

しかし同時に、タガが外れてしまうことへの共感もあります。同じように余裕のない日々を送っている者として「やっていることはダメだけど気持ちはわかる」という小さな共鳴のようなものも生まれているでしょう。これらの相反する感情を抱えて、日本人はどこに向かっていくのでしょうか。

うっかりすると、再び社会全体の仕組みや長期的課題からは目をそらし続けて、あくまでもタガが外れた当事者が悪い、という個人の自己責任に着地する可能性があります。もともとが抑制的な美徳を重んじる国民性であるが故に、そこからはみ出してしまった者を「だらしがない」「弱い」「敗者」などと位置付けて批判することで、まだギリギリで踏ん張っている自分へのエールとする行動は、十分にあり得る選択肢です。

特に、いざ問題を直視してその解決に取り組むとなると、当然それには社会的コストがかかり、自分にもそれなりの負荷がかかってくるわけで、とてもそんな余裕はないという心理もこれを加速するでしょう。しかしこの方向を選んでしまえば、結局、ひたすら耐えるだけのチキンレースが続くことになってしまいます。できれば正直、この方向は避けたいところです。

ここは前向きに希望的観測をするなら、「社会をどうにかしなくては」という意識が大きく動き出す可能性を指摘したいと思います。個々人の努力でどうにもならない社会全体の課題や問題を長期にわたり放置してしまった結果タガが外れたのだから、この状況を再び個々人の裁量に委ねるのには矛盾がある。だとすればまず「社会をどうにかしなくては」という気運が高まるのは自然な流れです。タガが外れてしまった人が起こすさまざまな出来事に、一つ一つ個別対応していてもキリがない。「もううんざりだ」という意味でも、根本的な解決に向かっていく可能性はあるはずです。

例えば、近年の日本の国政選挙における投票率は6割に届きませんし、地方選挙では5割を切ってしまっています。しかし、今後この数字が上向き始めるかもしれません。今までは「お上に丸投げでおまかせ」としてきた人たちも、まかせた結果ついにここまできてしまったと後悔することで、「もうまかせてはおけない」というスイッチが入り、政治や経済にもっと参加しようとする人が増えてくるとしたら、それは悪くない話かもしれません。

また、登場してから今日まで大きな規制の対象とはなっていないネット上での発信に対して、法的整備を求める声が高まる可能性もあります。各プラットフォームはすでに通報によるアカウント制限など独自のルールを策定していますが、これらでは全く追いついていないとして、例えば「匿名アカウントの禁止」「フェイクに対する罰則」のような大きな改革を求めるかもしれません。比較的緩やかだった日本のインターネットに関わる規制も、ここで大きな転換期を迎えるかもしれないのです。

いずれにしても、近い将来、一度は、日本社会が未解決のまま抱えてきた長期的課題を強く意識せざるを得ないのは必然に思えます。そしてこのことが、また一人一人の欲望に影響を与えることになります。

欲望は社会の価値観の変化に敏感に反応して形を変えていき、その新しい欲望がまた社会の価値観に作用していく。この繰り返しの中でも、そろそろ大きな節目を迎える予感がしてなりません。DDDは引き続き、この欲望と社会の価値観との関係を注意深く調査分析し続けていきます。

【調査概要】
第7回心が動く消費調査
<第7回「心が動く消費調査」概要>
・対象エリア:日本全国
・対象者条件:15~74歳男女
・サンプル数:計3000サンプル(15~19歳、20~60代、70~74歳の7区分、男女2区分の人口構成比に応じて割り付け)
・調査手法:インターネット調査
・調査時期:2023年11月1日(水)~ 11月6日(月)
・調査主体:株式会社電通 DENTSU DESIRE DESIGN
・調査機関:株式会社電通マクロミルインサイト

 

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