仕事という名の冒険No.5
イスタンブールのパンクに会いにいく
2015/09/10
過去4回にわたり紹介してきた拙著『仕事という名の冒険 世界の異能異才に会いにいく』(発行:中央公論新社)の紹介ですが、今回が最終となります。(#1 #2 #3 #4 はこちら)
今回はイスタンブールで伝統美術をバックグラウンドに持ちながら、新たな表現を必死に模索するアートディレクターの話です。
新たなものを見いだし生み出す仕事というものは、常に自分の価値観を突き崩してくれる「何か」との出会いを必要としています。
そういう異物・他者との出会いやハプニングに満ちた状況に自分を置くという意味合いが大きくなっていくほど、旅というものはより存在感を増していくのだと思います。
全5回、夏休みシーズンということもあり、いくつかの冒険潭を、と連載の場をいただきました。
旅のもたらす最も大きなものは、旅に出ようと思った瞬間に吹いてくる風のことだ、という文章を読んだことがあります。日常の中に違う見方が入り込むことこそが、新たな可能性の源なのだと思います。そのような風とまではいかないと思いますが、世界の異能異才との出会いに少しの清涼感、願わくば旅の風情のようなものが漂うようであれば、筆者としては幸いです。
カンヌの審査員仲間のトルコ人から、「うちの国の国際広告祭でスピーチをしてほしい」と頼まれた。断る理由もないし、スケジュールさえあれば大丈夫だよと言うと、すぐさま広告祭の事務局から連絡がきて、スケジュールをできるだけ合わせるからぜひ、とのこと。せっかくなのでもろもろ調整をして、行くことにした。
そのうち、パネリストとしてディスカッションにも参加してほしいという話が出てきて、さらに雑誌の取材に応じてほしいと言われる。
まとめてやってみるかと思うが、当たり前のことながらなかなかハードだ。そもそも読んだことのない雑誌の取材は読者感覚がないのでとても難しい。かつて取材を受けたロシアでもフランスでも中国でもそうだったし、トルコでも同様だ。
トルコの広告祭は大変な盛り上がりを見せていた。急激な経済発展と不安定な通貨がもたらす急激な停滞、政治も不安定で、紛争まがいのことが相変わらず続いている。僕をこの国に呼んでくれたアートディレクターは、そんななかで仕事をしている。
日本のカルチャーに造詣が深く、ときどき海外のアートディレクターにいるOTAKUかと思いきや、現代美術についても建築についてもファッションについても、つまりはデザイン領域の広範にわたって見識が高い。しかしながら、父親も師匠もトルコのトラディショナルなデザインを大事にしているアートディレクターということもあり、トルコ古典芸術がバックグラウンドになっている。
父親はエブルという伝統美術の大家だという。エブルとは染料をたらし、スティックで表面をなぞることでマーブル模様をつくりだし、それを紙に写す技法だ。
エブルは政府の証書の用紙に使われることが多かったようで、その意味で彼の家は体制派として見られることがあったらしい。
そのことがどんな意味をもつのか、話をする彼の表情から読み取ることはできなかったが、複雑な思いがあったのは間違いない。彼は自らアートディレクターを目指し、今はデジタル技術を駆使した新しい表現のあり方について日々研究をし、制作を行っている。
伝統とは、最も越えるのが難しい「時代性」をものともせず存在してきたもののことだ。
だからすべての古典は学ぶべき対象であるし、一般的なイメージにあるような退屈なものではなく、強さに満ち刺激に満ちたものだ。だから伝統を学んだ人間が新たな表現を模索するとき、バックグラウンドにあるその強度が、安易な現代性に流されないものを生み出すもとになる。パンクという概念はそれに近いと僕は思っていて、彼はまさにそのタイプだ。
そして彼は自分が背負ってきたものと常に戦っている。背負っているものがあるからこそ生まれるものがあると思う。
アンチテーゼは、ものを生み出す原動力となる。
アンチテーゼはテーゼがなくなれば消失するという意味では脆弱だが、それでも原動力としての力は計りしれない。
仕事をやっていると、誰しもぎりぎりの状態に追い込まれるときがある。そこを踏ん張る力になるのは、コンプレックスやアンチテーゼだ。それは、純粋なものづくりの欲求とは異なる、人間としてのどうしようもない負の力だ。
イスタンブールで彼の仕事場を訪問したとき、そういうものの力をまざまざと見せつけられた。その作品の数々は僕にこう問いかける。「お前は何を背負って仕事をしているのか」。
表現というものは、一般に考えられているよりはロジカルな要素が多いものだが、最後に歪な力が入ることで力を持つものが生まれる。それは間違いない。理路整然としたものに人は納得しても、わくわくするかと聞かれれば、限定的だと言わざるを得ないように。
彼の仕事を見ていると、いい仕事をするには、人間としての不完全な部分をさらけ出すことを求められるような気がした。それはとても怖い行為だ。それでもなお、仕事に強さを求めるのであれば、そういうことが必要なのかもしれない。
仕事とはどこまでいっても人がやるものだ。
だからこそ、仕事には人間性が投影される。結局のところどう生きているか、ということでしか勝負のしようのない世界が、もうすでにそこにあるのだ。
<了>