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男コピーライター、育休をとる。No.8

「イクメン」にはうんざりだけど

2018/04/26

コケコ、満10カ月に

おっ、美味しそうな桜餅(※1)、と思ってつまんだら、それはわが娘コケコのほっぺただった。まるで春そのもののような顔をして、コケコは満10カ月になろうとしている。

この原稿を書いている時点(※2)で、保育園の入園式を来週に控えた状態だ。そう、なんとか保育園が決まったのです(このへんの経緯はまた別のところで話したいと思う)。
いまのわが家には、「小さいけど一人前」という坂本慎太郎の歌(※3)がよく似合う。「町が広い この世界は何? 春のにおい 風の肌ざわり 覚えていたい ささいな事までも」

約半年間の育休から復職して、2カ月半。
コピーライターとしての勘や技術は、わりと戻ってきた気がする。心配したほど鈍っていなかったというか、半年(育休期間)に負ける15年(職歴)ではなかったということだ。ところで、そうした「コピーライター体質」が本調子になるにつれ、あるアレルギーが激化していることに気がついたのだった。

それは「イクメン」という言葉に対して、である。

いまや僕のことをこう呼ぶ人もいるわけです。嫌な言葉だ。どれぐらい嫌かといえば、仮にコケコのブリット砲(別名ウンチ。連載第2回参照)を処理する心理的負荷を1brt(ブリット)とすると、「イクメン」と呼ばれるときのそれは、235brtぐらいだと思ってもらえればいい。
今回は、あえてこの言葉について、エモーショナルかつクールに考えてみたい。

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イラストレーション:第2CRプランニング局 三宅優輝

「イクメン」の罪!

なぜこの言葉が嫌なのか。
なによりもまず、「イクメン」という字面と響きがダサい(と感じる)からだ。カタチや音って重要なのである。これの元ネタと思われる“イケメン”がそうであるように、妙に「おだてるニュアンス」が入っていることも、うなじのあたりをゾワッとさせる。

そもそも育児に積極的な男性といっても、その積極性にはいろんな在り方がある(ことをいまの僕は知っている)。それらを一様に、かつ雑に、マジョリティから隔離してしまう言葉でもあるのだ。特殊な競技のプレイヤーか何かのように(※4)。

さらに、育児という恒常的な行為(というより「状態」に近いですよね)が、ある種のファッションというか、刹那的な一現象のように扱われがちになる。男性の育児そのものが、この言葉によって流行として消費されてゆくのはイタイなあと個人的には思う。俺たちを消費すんなよ!と。

よくミュージシャンなんかが、音楽のジャンル名にうんざりしていたりしますよね。「シティ・ポップ」(※5)って呼ぶな!とか。そういう気持ちがちょっと分かる気もするのだった。好みにも体型にも合わない服を勝手に着せられているような感覚。
しかしまあ、なんだかんだでひとつめの理由が大きいのだろう。コケコが生まれる前の時代、自分たち夫婦が「DINKs」(※6)というマーケティング用語で呼ばれることには正直そんなに抵抗がなかったから(端的な事実だしね、と)。

ともあれ育児中の男性で似たようなことを感じている人は多いはずで、当事者たちは「イクメン」という言葉を使うことを避けていたりもする。
結局のところ「イクメン」というのは外側から呼ぶための言葉であって、本人たちが名乗るようには設計されていないのである。一方通行。そのあたりも“イケメン”の仕様をなぞっているのだ(ただし狩野英孝氏の用法(※7)は例外とする)。

こう書くと、前回のコラムで「イクタン」って言葉を提唱していたくせに、と指摘する人もいそうだ。が、あれとこれは全く非なるものなんです。あっちは制度の愛称、いわば商品名みたいなもの。対して「イクメン」は人をカテゴライズする(切り分ける)パーテーションなのである。

だがしかし、といったんここでクールダウンしてみよう。いちど世に放たれてしまった言葉だ。嫌だ嫌だと駄々をこねるだけでは仕方ないし、どうせ当分は僕たちの視界に入りつづけることになる。だったらちょっとは向き合ってやらなくちゃ言葉に対してフェアじゃないだろう、とも思ったのだ。

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「イクメン」の意味!

「イクメン」という言葉のもとの定義は何か?厚生労働省の公式ページには、こうある。

イクメンとは、子育てを楽しみ、自分自身も成長する男性のこと。または、将来そんな人生を送ろうと考えている男性のこと。

良いコンセプトだと思う。理想的すぎる気もするけど、理想というのはそういうものであって、異論ナシだ。

だが実際はどうだろう。いま、「イクメン」という表現にあなたはどんな印象を持つだろうか。
他意なく「育児に積極的なのね」ぐらいのニュアンスで使われるケースもある一方で、反対に揶揄のニュアンスがべったりと貼り付いてくることも多くなった。「はいはい“意識高い系”ね」「コウノドリのナオト・インティライミ(※8)ね」といった感じで。口先だけの人に使われやすくなったせいだ。

言葉が半ば形骸化しちゃった、とも言えるけれど、もとの語義から離れて独り歩きしているとも言える。それを僕は、単にダメなこととは思わない。言葉は生き物、とよく言われるように、いまこの瞬間に使われているその使われ方こそが、その言葉の機能している(活きている)姿なのだ。

生まれては忘れ去られていく新語が多いなかで、2018年現在、「イクメン」という言葉は、まだ死語になっていない。どころか、粘り強くはびこっている(という語彙を選ぶのは嫌いだからですが)。そこにはそうなるだけの必然性があるはずなのだ。

この言葉を切実に必要としている人、僕とは逆でこの言葉に救われたなんて人もひょっとしたらいるかもしれない。それを想像する力は持っておきたい。
ネタにされる。いじられる。流布され、曲解され、揶揄される。どれもこれも、その言葉が消える理由ではなく、むしろ広まっていくプロセスだ。なんにせよ、かつて社会的関心事になりにくかった男性の育児全体が、ひとまず注目や議論の対象になっていったことに意味はある。

それで言葉のカッコ悪さがチャラになったりはしないんだけれども、好き嫌いを超えたところで、ひとつの言葉が環境に順応しながらサヴァイヴしワークしてゆくダイナミズムを、そこに見てとれる。サヴァイヴ、とか書いててちょっと恥ずかしいですが。

「イクメン」反対派のなかには、「育児という当たり前の行為を特別視するのが誤りだ」と主張する人もいる。僕も、最初のほうで書いたように、個人的にその気持ちは分かる。だけど、正論における当たり前が、実質みんなの当たり前になっていないことを見るべきだ。

はやりさえしないものは、普及もしにくい。流行は、定着へ至る途中段階なのかもしれない。このほとぼりが冷めたころ、男性の育児は本当の意味でフツーのことになり、役割を終えた「イクメン」という言葉は宇宙の塵と化し(ガッツポーズ!)、そのとき僕は言うだろう。お疲れさま、君のことワードとしては嫌いだったけど、よく働いたよね、と。

こういうのってなんて言うんだっけ。そう、必要悪だ。
なんの呼称もなかった社会よりは、「イクメン」という言葉がばらまかれた社会のほうが、少なくとも育児についてはいくらか良くなっている、と思いたいじゃないですか。口先だけの人が増えるぶん、口先だけじゃない人も増えるはず。そしてあらゆるダサさも、洗練への途上である、と。

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37にして青二才

男性の育児にまつわるトークイベントで知り合った男性(父親として大先輩である)からこんなコメントをいただいた。
「私も自らこの言葉を自分の形容に使ったことはありません。(中略)『他称イクメン』は勝手にどうぞ、と自分の中でつきあい方を決めている感じです」
勝手にどうぞというこの余裕…なんて大人なんだ!僕などまだまだ青二才である。

三児の母でもある職場の先輩から、こんな助言もあった。「どうラべリング(※9)されても気にしないことですよー」。ですよね、と励まされる思いだ。
思えば、ギャルって呼称を平然と受け入れるギャルとか、ちょっとかっこいいもんな(※10)。そんなこと気にする暇とエネルギーがあったら、コピー書くかコケコ見るかしたいものである。
みなさん、さすがすぎ。魚返、修行が足りなすぎ。

賢明なる読者のみなさんはすでにお気づきだろう(って言ってみたかった)。
ここまで書いてきたことは、コピーライターの仕事に跳ね返ってくる話なんですね。

カテゴリーを新しく作ったり、はやらせたり、廃らせたり、といったことをときどきする。そのために何かを名付ける。
こころざしとしては善なるものを目指しながら、それが必要悪にもただの悪にもなり得ることを忘れずに仕事をしたいものだ。まあ少なくとも、当事者にダサいと思われる呼称は罪深いよなーとか。
マーケティング用語として舞台裏で言うぶんにはまだしも、コピーというのは世に出てみんなに消費されるものだから(ここで「消費」と書くのは、自虐じゃなくてむしろ自負です)。

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さて、育休を終えた僕を待ち受けていたのは、「スーパーフレックス制」(※11)という勤務体系だった。これをうまく使いこなせるかどうかがポイントとなってくる。コケコの保育園生活は、そんななかでスタートする。次回は、あたらしい生活の実感について書いてみたい。不定期で恐縮です(※12)。

※1
和菓子のひとつ。関東風の「長命寺」と関西風の「道明寺」に大別され、前者は餡子を皮で巻いたものを桜の葉で包む。
後者は餡子を内包した”ぼたもち”状のかたまりを桜の葉で包む。比喩としてはどちらをイメージしてもらっても構わないように本文は書かれている。

※2
2018年3月下旬。桜はすでに満開のピークを過ぎてしまった。

※3
「小さいけど一人前」は、坂本慎太郎のソロアルバム1作目「幻とのつきあい方」(2011年)に収録。“幼少の記憶”について書かれた歌詞のように見える。

※4
育児を「プレイする男性」(少数派)と、「プレイしない男性」(多数派)に分けるような作用がある。この場合、後者こそが「ごく一般的」というニュアンスを帯びる。

※5
「シティ・ポップ」は日本のポップスを語る際に用いられるジャンル名称。大瀧詠一や荒井由実らに代表される1970年台後半の一潮流を指すためにメディアによって名付けられた。2010年代になって、この用語そのものがリバイバル。現在活動中のアーティストやバンドのなかで一定の要素(都会的洗練、音楽的多様性、という程度の曖昧なニュアンス)を持つものは、この言葉でくくられやすい傾向にある。

※6
「DINKs」(ディンクス)は“Double Income No Kids”の頭文字から作られた呼称で、広義には「子どものいない共働きの夫婦」、狭義には「子どもを持たない選択をしている共働きの夫婦」を指す。

※7
お笑い芸人の狩野英孝氏がブレイクしたネタは「ラーメン、つけ麺、ぼくイケメン」であり、「イケメン」が自称された非常なレアケースといえる。

※8
「コウノドリ」は、同名漫画を原作にしたテレビドラマ。2017年10月よりTBS系で第2シリーズが放送された。産婦人科を舞台としたこのドラマに、ミュージシャンのナオト・インティライミ氏もゲスト出演。「イクメン」を自称しながら妻を産後うつへと追いやる夫を演じ、視聴者から大きな反響を呼ぶ。演者本人には罪がないにもかかわらず、ネット上ではダメな夫の代名詞のように取り沙汰された。

※9
ラベルを貼ること。似た言葉に「レッテルを貼る」というのもあるが、「ラベル」よりも「レッテル」のほうが、どういうわけかよりネガティブに、偏見の比喩として使われることが多い。

※10
たとえば電通内にも「ギャルラボ」というユニットがあり、メンバーたちは(一般的な「ギャル」の定義がどうかはさておき)、「ギャル」を自称することもいとわないばかりか、楽しそうである。そこから見ると、今回のコラムなどずいぶん気難しいことだろう。

※11
「スーパーフレックス制」とは、コアタイムを伴わないフレックス勤務の体系。詳細は次回を参照されたい。

※12
あくまでも予定だが、次回のコラムはできれば6〜7月あたりにアップしたいと筆者は考えている。