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男コピーライター、育休をとる。No.7

育休の終わり、すべての始まり

2018/02/20

育休という平凡

半年間にわたる育児休業が、もうすぐ終わってしまう。
わが娘コケコを風呂に入れる(というか一緒に入る)のはもともと僕の担当なのだが、最近は妻がそれをやっている。僕が復職した後も妻の育休はしばらく続く(※1)から、一人でも一通りできるように、というわけです。

それにしても、これから娘と別々に暮らすわけでもないのに、この引き離されるような感覚は何事か。ずっと一緒に居続けたせいで、寂しさの「閾値」(※2)みたいなものが下がっているらしい。こんな寂しさを忘れないでおこうと思う。

問.
半年間の育児休業を振り返って筆者が感じたことを20字以内で述べよ(句読点を含む)。

と自分で自分に出題してみる。20字で言えるわけないのだが、「君はコピーライターだろう」と内なる何かが言うのである。うーん…じゃあ、これでどうか。

ちょっと優しい人間になれた気がする。(18字)

えーーー、という声が聞こえそうだ。ここへきてその月並みな表現はなんだ、と。もっとキレとか意外性とかインパクトとか、はたまた「新登場感」(※3)のあるメッセージはないんですか、と。

ふふ。そんなのどうでもいい。

真実っていうのは、平凡なものだ。という意味のことを、作詞家の松本隆氏が言っていた(※4)。そうかもなあ、といま思う。
子どもを生んで育てること。初めての子育てに戸惑うこと。でもなんだか楽しいこと。こんなすべても、平凡すぎるほどの平凡だ。そのど真ん中に飛び込むためにたった半年、会社を休んだ。それだけである。そうか、育休だって俯瞰で見れば、平凡の一部なのだった。

生後2カ月目にこんなだった1日は…。

生後2カ月タイムテーブル_1生後2カ月タイムテーブル_2

生後6カ月目にはたとえばこんな風になった。

生後6カ月タイムテーブル_1生後6カ月タイムテーブル_2

これだって、育児経験者にとっては平凡な変化なのかもしれない。
 

宿題、あるいは希望

一方で。20字以内なら、こんな感想も間違っていない気がする。

「やり切った感」が、なさすぎる。(16字)

本当にないんですよ。ちょっとは達成感や充実感が得られるものかと思っていたけれど、むしろその逆。できたことなんてわずかで、できないことばかりがクリアになっていった。
母乳が出ない。首尾よく夕食を作れない。コケコの泣き声でパッと目覚めることができない。泣く原因を見抜けない。ストローマグ(※5)のお湯をベストな温度で差し出せない。爪をうまく切ってやれない。うつ伏せの状態で、洋服を手早く着せられない。寝落ちせずにいること、ができない。母乳はやはり出ない。

それに後悔もある。オムツ交換のとき、しきりにうつ伏せになろうとするコケコに「待てって!」と声を荒らげた。お風呂で背中を洗うときちょっと手抜きした。繰り返されるコケコのケアに飽きそうになった。託児サービスに預けて映画観に行こうと企んだ(未遂)…。どれもすこしずつ悔やんでいる。

何かやり遂げた気分になんてならないのだ。
ここまでがひとつのプロジェクトです、という明確な区切りや目標が育児には存在しないから、というのもある。育休が1年間なら違っただろうか(違わないか)と考えたりもするけど、タラレバはもうよそう。
この育休がなければ、僕は自分が「何をできていないのか」さえ知らないままだった。

育休が終わろうとも、育児そのものはひたすら続く。これは始まりの終わりに過ぎないのだから、せめていろんな心残りをこれからの生活のヒントにしたいと思う。たくさんのヒントが残された。宿題。それを希望と呼ばせてもらうことにする。

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イラストレーション:第2CRプランニング局 三宅優輝

育児休業は、「育児インターン」へ

以前は見えていなかったけれど、いま周りに目を向けてみると、同じ男性でも僕のできないことを見事にやってのける人たちがいる。育休なんて取っていなくても、だ。

早朝に起きて家事を一通り済ませてから仕事に行く人。食材の在庫状況を把握していて、きょうの献立をささっと構築、そこから1時間で3品作れる人。10kg近い子どもを2時間ぐらい抱き続けられる人。くたくたになって仕事から帰ってきても、寝ずに子どもをあやし続ける人。3人の子どもを同時にみている人。
こともなげに、こんな場所(メディア)で声高に言うこともなく、やっていたりする。それが平凡のひとつであるみたいに。

すげえ。(4字)

こういう人たちがもし育休を取ったら、さぞかしすごいことになるだろうなと率直に思うのです。わがコラムの立場が危うくなること必至である。

この連載をはじめるとき、これが育児休業という制度についての広告(の長い長いボディコピー)になるのもいいな、と考えていた(※6)。いまでもそう思うけれど、でも。

育休は取ってもいいし、取らなくてもいい。
取る・取らないが等しく当たり前の選択肢であること。男性の育休がそれぐらいメジャーになりさえすればいい、と感じています。

まずは本人も周囲も、育児休業というものを、ひとつの研修とか現場実習のようなものとして捉え直す必要があると思う。一人の職業人兼家庭人として、いい感じにグレードアップするための。
ちょっと乱暴なたとえだけど、留学とか出向とか長期出張のようなもの、ぐらいの把握でいいかもしれない(なお、僕が結果的にグレードアップしたかどうかはこの際あまり問わないでいただきたい)。

そういうわけで、育児休業をたとえば、こう名付け直してみてはどうだろう。
「育児インターン」。略して「育タン」。

イクタン。かわいい。そして「いくちゃん」こと生田絵梨花(※7)とは何の関係もない。
夫がイクタンに就く(という動詞をあえて使う)かどうか、それぞれの家族なりに納得できればどっちもアリだと思います。そう。

自分の家族さえOKならOKじゃん。(17字)

というのもこの半年を通して感じたことだ。
育児の世界には、誰かが他者に“べき”を押し付けるケースのなんて多いことだろう。母乳だけで育てるべき、夫も仕事を休むべき、休んだら夫は〇〇を担うべき、赤ちゃんは仰向けで寝かせるべき、○カ月間は家で育てるべき、スマホの電源は切るべき。たいていの“べき”はどこか不機嫌な顔をしていて、ときに有名人のSNSなんかを炎上させたりもする。まるで“べき”の地雷原ですね。

“べき”を言うなら、「わが家の“べき”」というローカルルールだけを正解としてはいかがでしょうか。わが家的にアリかナシか。それがすべてでいいはずなのだ。

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小さな国の文化をつくるように

うちの場合は半年間、共働きを「共休み」にして、「共育て」にした。おかげで自分たち自身、いろんなヒステリックから遠ざかることができた。

組み立て式の家具ってあるじゃないですか。あれを買うと、説明書に「必ず2人以上で作業してください」と書かれている。それを無視して一人で組み立てたことが何度もあるけど、二人でやれば20分で済む工程に1時間近くかけるはめになる。ケガのリスクも負うし、汗だくになってしんどいのだが、それ以上に、一人だと会話が発生しないことがつまらない。
育児もこれに似ていると思う(本棚のような完成はないけど)。二人でやるメリットは、「負担の分散」だけじゃなくて、「聞き手がいること」なのだった。

大人が二人いる場所には、絶えず言葉が生まれる。思えば僕と妻は、いつも喋っていた。互いに向けた言葉、コケコに向けた言葉、コケコに向けた言葉に向けた言葉、独り言、独り言以上会話未満の何か。各種取り揃えていたと思う。

連載第2回で書いたような“わが家スラング”もそこで生まれた。

我が家スラング我が家スラング

言葉だけに限ったことじゃないが、こうやって自分たちにしか通じないことが増えていく。それは閉じている、とも言えるし、家族として強固になったとも言えるんだろう。

僕の好きな「パラレル」という小説(※8)のなかに結婚式のシーンがあって、こんなスピーチが披露される。

「食卓でそれとって、いっただけで『それ』がソースか醤油か分かる。たてつけの悪い扉を開けるときの力の入れ加減を二人だけが会得している。そういう些細なものの集合はすべて文化で、外側の人には得られないものです」(中略)「お二人は夫婦という文化に守られるのではなく、結婚によって自分たちを守る文化を築いていってください」
 

これの「二人」を「三人」に、「夫婦」を「家族」に、「結婚」を「育児」にそれぞれ置き換えてもよさそうだ。
スピッツの「ロビンソン」(※9)で歌われる「誰も触われない 二人だけの国」とか、ダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」(※10)で描かれる無人島のように。わが家が、いったん閉じることで、どこか独立した小さな国になっていく。第一子の生まれたわが家は、三人だけの新しい国。その文化を一緒に立ち上げていくような感覚があった。

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そして、すべてが始まる

すでに書いたように、ゴールの感慨などなくて、スタートの感触があるばかりだ。今回の記事タイトルもだから、最初は「育休の終わり、育児の始まり」としていたんですが…なんてこった…育児をきっかけに、家庭や仕事や余暇の在り方が、つまりは暮らしのほぼぜんぶが新しくなり得るじゃないか、ということに気づいてしまった。

どうやって働こう。どんな仕事を狙おう。家族とどう過ごそう。どんな休日にしよう。どんなことに悩み、どんなことを気にせず、どんなことで喜ぼう。
15年間の会社員生活で、こういう新鮮な気持ちになったのは初めてなのだった。

20年後、いや10年後ぐらいか。「男性の育休ってだけでコラムのネタになったなんて」と言われる日が来るだろう。「意味わかんない。ダサい。ていうかコケコって誰?」なんてコケコに言われても(コケコは仮名ですので)、ただ優しく微笑む俺、の図。いい。いや、「ダサい」はちょっと傷つくか。

0歳の頃のことをコケコは憶えていないだろうけど、それもまあ全然構わない。だって僕と妻が憶えている。いつか人生を終えるとき、走馬灯(※11)という名のダイジェストムービーが流れるなら、そこに登場する瞬間のいくつかは、この半年からノミネートされたりして。

さて、月イチの定期連載はいったんこれで終わりです。読者のみなさん、どうもありがとうございました。両手いっぱいの育児への謙虚さと、コケコの満面の笑み(下の前歯2本をともなう)とともに、感謝を述べたい。
そして、ライフゴーズオン。コラムは不定期連載としてもうちょっと続きます。
復職してからの様子を書かなければ、育児「休業」の体験談として不充分だろうから。
コラムを読んで魚返に仕事の相談をしたいと思ってくださった方、是非ご一報を。

とりあえず、復職したら最初にしたいことがある。

ラーメン屋でラーメンを食べたい。(16字)

半年ぶり。狭くてやや小汚い店(失礼!)がいい。いま想像してヨダレが出ているところだ。

※1
筆者の復職から3カ月遅れて、妻も復職する予定である。ただし娘が保育園に無事入園できれば、だが。

※2
小学館の「デジタル大辞泉」によれば、「閾値」(いきち)とは「ある反応を起こさせる、最低限の刺激量」と定義される。「親バカ」と呼ばれる状態の人間はみんな、さまざまな閾値が異常に低下しているのだろう。

※3
広告の仕事をしていて、この「新登場感」なるニュアンスを何度求められたか分からない。男性の育休について言えば、実際、「新登場」では全くなく、第3回で書いたように社内にすでにいくつもの先例がある。

※4
日本を代表する作詞家、松本隆氏(1949〜)。たとえば2011年の2月に自身のツイッターで「真実とは平凡なものだ」とツイートしている。17年2月に出演したテレビ番組「ミュージック・ポートレイト」(NHK)のなかでも、女優・斉藤由貴と同趣旨の会話をしている。

※5
ストローマグとは、取っ手(マグ)とストローのついたプラスチック製の容器。赤ちゃんが取っ手を握るトレーニング、液体を吸引するトレーニングに最適。この容器を湯ざましで満たし、風呂上がりや離乳食を食べる合間などに吸わせるのである。

※6
ボディコピーは、広告コピーの一形態。キャッチコピーあるいはキャッチフレーズと呼ばれるものの多くが短文であるのに対し、ボディコピーはそれなりの文字数や行数をともなったひとまとまりの文章(群)を指す。キャッチコピーとセットで掲載されることも多い。

※7
生田絵梨花さん(1997〜)は、乃木坂46のメンバー。愛称「いくちゃん」。ピアノが得意なことでも有名で、楽曲「君の名は希望」の本人によるピアノ演奏は、東京メトロ乃木坂駅の発車メロディにも採用されている。

※8
「パラレル」は、長嶋有氏(1972〜)による初の長編小説。2004年に発表(文藝春秋刊)。作中に二度の結婚式が登場する。なお、氏は別名義「ブルボン小林」でコラムニストとしても活躍。奇しくも現在育児中らしい。

※9
「ロビンソン」は、スピッツの11作目のシングル(1995年発表)で、バンドをブレイクに至らしめた代表曲。草野正宗氏のインタビューによれば、「誰も触われない二人だけの国」の「国歌みたいなものを作ろうかなと思った」という。曲名の由来は諸説あり、タイのデパート「ROBINSON」とも、映画「ロビンソンの庭」(1987年、山本政志監督)とも、小説「ロビンソン・クルーソー」(次項参照)とも言われる。

※10
「ロビンソン・クルーソー」(Robinson Crusoe)は、18世紀英国の著作家ダニエル・デフォーによる小説シリーズ。第1作「ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険」(The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe)は1719年に発表された。“漂流もの”“無人島サバイバルもの”の源流とも言え、外界と切り離された生活が描かれる。

※11
一種の比喩として使われる「走馬灯」という表現だが、装置としての走馬灯(ゾエトロープ)は、あるモチーフの一定の動き(アニメーション)が反復されるばかりである。実際に人生の終わりに見えるものは、もっと映画のような「シーンの連続」なのではないかと推測される。