【続】ろーかる・ぐるぐるNo.171
なぜ、学問は必要なのか?
2022/09/28
佐藤春夫が「田園の憂鬱」を記した長閑(のどか)な町で、ぼくは小中高生活を送りました。以来、すっかり縁遠くなっていたのですが、同級生がイベントに登壇すると聞いてはじっとしていられません。久しぶりに懐かしの通学路をたどり、母校に行ってまいりました。
到着すると、振る舞われたのは学食のカレー。昔の味わいと比べようにも、記憶があまりにぼんやりしていることに苦笑い。辺りを見回すと、大庭三枝神奈川大学教授と、(以前このコラムにも登場していただいた)吉原真里ハワイ大学教授の講演者二人がお行儀よく並んで「黙食」しているのを発見。高校時代「この人たちは、いつ黙るんだろう?」というほどかしましかったお二人の、すっかり変わった姿に感心しながら、もう一人誘って控室にお邪魔し、昔話に花を咲かせました。
他愛もないことで大笑いできるのが昔の仲間の良いところ。調子に乗って盛り上がっていたら、係の方が飛んできて「舞台上にまで声が響いています!」と叱られちゃいました。三十余年経っても、この校舎内ではお説教される役回りみたいです。
しかしさすがは大庭さんと吉原さん。「学問を仕事にすることとは」をテーマに対談が始まるや、本領発揮。
「わたしたち学者のように学問を職業としていない多くの人々にとっても、きちんとした『批評』をするために、学問はきっと役立ちます」
「学問とは、まず学ぶこと。つまり、相手のテキストを正確に読むことから始まります。簡単なことに思えるかもしれないけれど、これがなかなか難しいのです。たとえばネット上の『議論』といわれるものの多くは、相手のテキストを正確に把握することを怠って、ただ自分の意見を主張するだけだったりします。しっかりそれをした上で、次にようやく問うこと、つまり意味を分析して評価するプロセスが始まるのです。学んでから、問う。だから学問」
という吉原さん。
「そんな『批評』をするときには、相手への敬意と余裕が不可欠です。無我夢中だった若い頃は、もしかすると私自身、そのことを十分には理解していなかったのかもしれないけれど、敬意と余裕がないと、批評は単なる『マウンティング』になってしまいます」
と受ける大庭さん。
丁々発止のやり取りの中で、次々に刺激的な話題が展開されました。
最近、社内の仲間と「creative dialogue(クリエイティブ・ダイアログ)」と称し、お互いのアイデアについて「健全な批評」をし合っています。興味がある人は誰でも参加OKのゆるい組織。これから電通が「アイデアの会社」として成長していくためには、「なんか、いいじゃん!」という感覚論ではなく、「アイデア」とは何であり、どのように役立つものなのかを考え抜こうという問題意識からスタートした取り組みです。
その中でなかなか難しいのが、お互いの「アイデア観」のすり合わせ。吉原さんに従えば、「相手のテキストを正確に把握する」プロセスです。そこで経営学の知見を「ひとつの尺度」として取り入れ、対話の基準としています。先日公開された野中先生と佐々木さんの対談も、その目的で実施したものです。融通無碍(ゆうずうむげ)なビジネスの現場だからこそ、話を積み重ねていくためには「学問」が必要なのだと実感しています。
そして、もうひとつ難しいのが「アイデア」について語り合う以上、相手の主観や人間性の領域にまで踏み込まざるを得ないことです。大庭さん流にいえば、「敬意」と「余裕」を欠くと、ぼくたちの「creative dialogue」も、新手のそして残酷なマウンティングに陥る危険性をはらんでいるということです。
これが実際、本当に難しくて。誰かの仕事について「健全な批評」をしようにも、そのさじ加減にいつも悩んでいます。
講演後の帰り道、そんな話をしていたら、別の同級生が「年齢を重ねても、相手に敬意を持てるかどうかのカギは、頭の上がらない師匠がいるかどうかに掛かっていると思うな。ぼくの場合はね、4年前に亡くなった英語のF先生の『おめーは、いい奴か???』って言葉を思い出すだけで、振る舞いが変わってくるんだよ」とぽつり 。
いつまで経っても、母校はよき学び舎なのでした。
170回目の記事から実に2年半もお休みをいただきました。また、のんびり連載を再開してまいりますので、改めてお付き合いいただけますと幸いです。
どうぞ、召し上がれ!