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「人文知」を社会実装するNo.2

哲学対話が組織に起こす「小さな変革」

2023/01/11

多様な価値観が広がる現代。企業も社会における自社の存在意義を打ち出すことが重要になっています。その中でいま、日本でも注目され始めているのが、企業理念の形成や研修における「哲学」の導入です。

哲学をいわゆる「思想」としてではなく、「方法」として取り入れる「哲学対話」のメリットや考え方などを紹介する本連載。第1回では哲学思考や哲学対話とはそもそも何かについて紹介しました。

今回は、電通コーポレートトランスフォーメーション部の中町直太氏が、東京大学「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)」センター長の梶谷真司氏にインタビュー。哲学対話が企業にもたらす効果や哲学者から見た日本企業の課題などについて伺いました。

梶谷氏と中町氏

「きちんと話をする」経験を、ほとんどの人はしてきていない

中町:まずは、梶谷先生がこれまで哲学対話・哲学思考等のプログラムを企業で実施してきた中で、教育現場や地域で行うときとの違いや、ビジネスパーソンならではの反応と感じたところがあればお聞かせいただけますでしょうか。

梶谷:例えば学校で哲学対話を行う場合、生徒たちはやる気がなければいかにも気乗りしない様子ですし、先生の中には反感を持つ方もおられます。ところが、企業の方々は「哲学対話って?」と戸惑う様子はあっても、仕事の一環なのできちんと取り組んでくださる印象です。

他方で、同じ理由から「これが何のためになるのか?」「仕事の役に立つのか?」と意識されている雰囲気も感じます。それは仕事に対しての責任感ややる気があるからこそ。企画者も効果を期待するが故に、対話のテーマに「会社」や「仕事」にまつわる内容を設定しようとするケースが多くあります。例えば「どうすれば仕事へのやる気が出せるのか?」について対話をしたいといった感じです。

しかし、私は企業で哲学対話をする場合、仕事・会社についてのテーマは避けるようにお伝えします。なぜかというと、どうしたらやる気を出せるかをテーマにした場合、「やる気がなくてもいいのでは」というそもそもの意見が出せなくなってしまうから。

こうしたテーマには、どこかに「正解」と思われる考え方や、上司・会社が持っていきたい方向性があります。その中で哲学対話をすると、自由な発言はできなくなるんです。哲学対話では、まず些細なテーマでいいからきちんと話せる関係性を作ったり、そうした練習を積んだりすることが大切なのです。そうして初めて、仕事に関わる重要で複雑なことについて話せるようになるんです。

中町:哲学対話がきちんと本来の形になってワークするかは、とても重要なポイントだと思います。われわれが提供する、いわゆるコンサルティングプログラムのワークショップの場合、限られた時間の中でテーマに対して結論を出すことや、ある種の合意形成まで持っていくことが責任として求められます。けれども、哲学対話は結論を急がない。むしろ出さなくてもいいという点が大きなポイントだと思うんです。この、原則として「結論が出なくてもいい」と定義されているのは、どういった理由からなのでしょうか?

梶谷:大人でも、実は「きちんと話をする」経験をしてこなかった人が、本当に多いように思います。でも、その経験が一番重要だからです。きちんと話をするとは一体どういうことなのか。それは、実際に体験しないと分からないものです。その経験がないから、うまく結論が出るように前もって根回しや説得をしておくのが効率的な、良い話し合いだと考えている人も結構います。

実際、哲学対話の体験後には「人の話を聞くとはどういうことかよく分かった」という感想をよくお聞きします。他に「自分の思ったことをそのまま言えてとても気持ちが良かった」「解放感を感じた」という意見も。

それは、趣味のおしゃべりや気の合う人同士が雑談をして楽しむこととはまた別の楽しさです。「話を聞くこと」「話すこと」自体を楽しむことは、会社、学校、地域等のどんな場であっても、全ての話し合いの基礎になる。だから、哲学対話のそもそもの目標はその点になるのです。

哲学対話イメージ

1時間で10人の社員の人柄が分かる!?“役割”前提の会話ではなく、人として話すことで新たな発見も

中町:「人の話を聞く」ことや「きちんと話をする」ことができていないのは、おそらく日頃からビジネスの枠組みに閉じ込められてしまい、上司の言うことは聞くけど、若手の発言はあまり重要視しないといった暗黙の予定調和があるからですよね。哲学対話の目的は、ある意味それを崩すということでしょうか?

梶谷:会社だけの話ではありませんが、組織では多くの人がそれぞれの“関係性”の中で話をします。それぞれに場の中の「役割」があり、新入社員はあくまで“新入社員”として、部長は“部長”として話す。1人の人間として話しているわけではないんです。

学校でもよくあることで、例えば成績があまり良くない子は大抵授業中黙っていますよね。けれど、哲学対話ではそんな子が突然自分の意見をしっかり言ったりします。普段はあまり発言しない子が急にきちんとした意見を言うので先生はびっくりする。その何が良いかというと、相手に対する見方が変わることです。それまで「この子はできない子だ」と思っていたのが、「実はきちんと考えている子なのだ」と。

これは会社でも同様です。仕事では反応がイマイチで頼りないと思っていた若手社員が、哲学対話になった途端に自分の意見をきちんと言ったりすると、実はしっかりしていると思い直したり、関係性も変わってきます。

私は、人としての関係性がベースに出来上がっている状態で各自が役割を担うのと、それがないまま役割だけで関わるのとでは、組織としての人間関係がかなり変わってくると思います。そういう意味で、企業における哲学対話は「チームビルディング」の文脈で行うと比較的入りやすいですね。話した後はみんな楽しさを共有しているので仲良くなりますし、職場の雰囲気を良くするのに役立つことを、おそらく多くの参加者が実感しています。

中町:会社員の場合、役割が規定され、それを演じるような状況はどうしても多いですよね。規定された役割分担というビジネスライクなものではなく、まずベースに人と人との相互理解や信頼があってのチームビルディングと考えると、哲学対話との相性の良さを感じます。

梶谷:最近は上司が部下と1on1で話をする企業もありますよね。ただ、その場合1人につき30分~1時間かけて話をすることになる。そこを哲学対話にすれば、1時間で参加者10人分の人柄がよく分かったというような感想を聞いたこともあります。また、部下だけではなく、場合によっては上司に対する見方も変わる。非常に厳しくて口うるさいと思っていた上司が実はアイスクリーム好きだったと分かるとか。そんなふうに相手をきちんと“人”として見られるようになるんです。

哲学対話における「知的安全性」は、傷つかずに話せることではなく「どんな疑問でも持っていい」こと

中町:最近、企業でもよく「心理的安全性」という言葉が使われます。“何を言っても責められたり怒られたりしない”という信頼感の下のコミュニケーションといった意味で使われることが多いのですが、正直この言葉が今、少々独り歩きしているようにも感じます。コミュニケーションにおいて、互いに傷つけ合わない状態って、おそらく多くの人が実感したことがないように思うのですが。

梶谷:確かに「心理的安全性」という言葉は、企業のみならずさまざまな組織で言われていますし、みんなが気持ちよく和気あいあいと、傷つかずに話せるようなイメージがありますよね。哲学対話でもそれが大事という人がいるのですが、少なくとも私がハワイなどで学んできた哲学対話上の「セーフティ」は「intellectual(インテレクチャル)safety」という単語が使われていました。これは訳すと「知的な安全性」、つまり「どんな質問をしてもいい」ということになり、気持ちよく話すとかみんなが傷つかないという意味ではないんです。

組織ではそもそもの質問をしにくい場面が結構ありますよね。「何でですか?」と聞いても「決まっているからだよ」と言われてしまうような。普段の会話でもあまりいろいろな質問をしていると、「この人はなぜこんなこと聞いてくるのだろう?」と警戒されることがあります。けれども哲学対話の場合は、ただ純粋に理由が知りたい、言葉の意味を明確にしたいという目的で参加者が一緒に探究をしているだけなので、どんな質問をしても一緒に考えればいいとなります。それがある種の安心感になる。

投げかけられた問いによっては、「それを聞く?」と、場が一気に緊張するようなことも当然あります。しかし、だからといって、誰も「何てことを聞くんだ」とは言わない。みんなできちんと受け止めて考えるのが哲学対話なんです。

中町:なるほど。「知的な安全性」というのは、自分が考えたり、疑問に思ったりする知的好奇心を、どういう種類の疑問であっても阻害されないということなんですね。好き勝手に文句を言っていいということではない。企業で本当に必要なのは、むしろ「知的な安全性」のほうではないでしょうか。

特にアイデアを生み出したり、新しいものを作ったりするときに「何ばかなことを言ってるんだ」と言われないことは重要ですし、それが本質のように感じました。

疑問イメージ

優秀な人だけの組織は脆弱。ときには自社のルールを疑い、“できない人”の感覚を取り入れてみる

梶谷:働く上で、気持ちのいい職場であるかは非常に大切なことだと思います。気持ちの良さとは仕事の中身だけではなく、結局は人間関係です。「今の状況は何かおかしい、これでいいのかな?」と感じたときに、受け止めてもらえる職場は基本的に居心地のいい場所のはずです。

より優れた人が仕事を頑張り、そうでない人は仕方ない、という感覚が企業ではあると思います。しかし哲学対話をしていると、いわゆる職務上のという意味ではなくて、それぞれに役割があると感じるんです。例えば意見をさほど言わずに、ただうんうん聞いている人もいますが、そういう人がいるから話せることもあります。逆にたくさん発言するけれど、内容はそれほど大したことがないと分かることも。

そんなふうに、それぞれの存在感や各自がいる意味が表れてきやすい。分かりやすく「優秀」ではなかったとしても、意外に大事な人がいるんです。実際に企業の中で人をどう評価するかは難しい問題ですが、一見目立たない人やダメそうに見える人が、実はとても大事な役割を担っている可能性を会社が認めるケースがあってもいいと思います。むしろ私は、優秀な人だけで成り立っている組織は、実は結構脆弱なのではないかと思いますね。

中町:野球で四番バッターばかりそろえても試合に勝てるわけじゃないことと似ているかもしれませんね。

梶谷:例えば新入社員は、まず会社のルールや考え方を身につけなくてはいけないから、あまり発言権がないことが多いと思います。でも裏を返せば、まだ会社に染まっていない彼らは、自社のおかしな部分に一番気づく存在でもあると思うんです。“できない社員”も同じで、こちらはある意味、会社のやり方に適応していないということですよね。それは一見問題で良くないことに思えるかもしれないけれど、適応すべきルールがそもそも正しいのかどうか。そこに一番敏感な人であるとも言えます。

中町:確かに力を発揮できない人は、その組織の“当たり前”の外、異文化の中にいる。それをダメと断定するよりも、その組織文化の外にある独自性を、企業側がうまく取り入れることを一度考えてみた方がプラスになる可能性があります。それがダイバーシティということなのかもしれないですね。

梶谷:ダイバーシティも、企業や学校が頑張って個性の違う人を受け入れましょうというような状況になることが多いですよね。そのために配慮をしましょう、設備を整えましょうという動きになっている。ただ、デザインの世界にはそうではなく、「エクストリームがメインストリーム」という考え方があります。

それは、最も困難を抱えている人が「自然」にいられるような場にすれば、他の人も居心地がよくなるはずだという考え方です。例えばエレベーターやエスカレーターは、基本的に体が不自由な人のためのもので、そうではない人はみんなその恩恵に預かっています。タブレットやキーボードも、もともとは体や目が不自由な人のために開発されました。

仕事ができない人でも居心地よくいられる企業なら、仕事ができる人にとっても居心地がいいはずなんです。

多様な疑問が受け止められる組織なら、変革はおのずと起きる

中町:最後に哲学者の視点から、日本企業を変革し、共創を起こすためのアドバイスやヒントがありましたらお聞かせください。

梶谷:日本の企業では評価の際にきっちりとした基準があり、その評価に従って順位が決められる傾向があります。上にいる人は良くて、下にいる人は残念だと。もちろんその評価があるから頑張る人もいますし、強制力がなければ人は頑張らない、競争によってこそ人は伸びると皆さんわりとおっしゃいます。

中町:そうですね。ビジネスの場では特にその論理が貫かれていると思います。

梶谷:ただ、私自身がいろいろな人がいていいと話している意味は、その評価において上から下までいていいということとは、少し違っています。企業で言う上や下は結局のところ、同じ基準で人を切っていった結果。そのように一つの基準に従って人を順位づけることは、私はやめた方がいいと考えています。そうした頑張り方によって達成できることもありますが、人は面白いと思えたり、認めてもらえたり、やったかいがあると思えたら努力をするからです。そこを信頼することが大事なのではないでしょうか。

それは怠けていいとか、つらいことは一切しなくていいということではありません。基準は1つじゃなくていいですし、いちいち順位をつけなくてもいい。ダイバーシティが大切なのは、さまざまな人がいることによって、多様な疑問が生じるからです。その多様な疑問が全部受け止められれば、少々の違いも許容されるようになり、誰にとっても居心地がいい社会になっていきます。

哲学対話では、その感覚を1時間で体験できる。違う人を認めることや人の話を聞くこと、質問していいというのがどういうことかが分かると、普段の仕事の仕方も人間関係の作り方も変わるのではないでしょうか。私は、「変革」は結果論だと考えています。みんなが自由にいろいろな疑問を持てる組織であれば、おのずと変革は生まれてくるのです。

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